期限4年のライムライト


photo by WOG

 BIG10トーナメント準々決勝、ミシガン大対オハイオ州立大。ゲーム後半残り3分弱、つけられてしまった点差は20点以上。選手交代が告げられ、ミシガン大学ウォルバリンズの4年生ポイント・ガード、ルイス・ブロックはついにコートを離れなければならなくなった。キャプテンであるルイスの口惜しさはチームメイトやコーチ達には十分すぎるほど伝わっている。慰める者、大泣きしている者、じっと涙を堪える者。
 ゆっくりとベンチに腰を下ろし、口元を左手で押さえ、じっとコートの方を見つめるルイス。その姿を写真に収めようとファインダーを覗いた時、私は胸が押さえつけられるような痛みを感じた。 

 ルイスが泣いているのだ。あの、いつだってポーカーフェイスで淡々とバスケットを決めチームを勝利に導いていったルイスが。私はどうしていいやらわからない躊躇いを覚えた。もしかしたらこの姿は撮ってはいけないものなのかもしれない。でも、このルイスの涙は撮っておかなければならないんだ。私は義務感のようなものすら感じて、シャッターを切った。

 これがルイスの、大学でのラストゲームだった。
 4年前、ルイス・ブロックは将来を嘱望される高校生スター選手としてバスケットボールの名門校の一つであるミシガン大学に入学した。当時ミシガン大にはモーリス・テイラー(現NBAロサンゼルス・クリッパーズ)やジェロード・ウォード、メシオ・バストン、ロバート・トレイラー(現NBAミルウォーキー・バックス)らがいて彼らの実力をもってすれば優勝も夢ではなかった。しかしルイスが2年の時、チームは不調を極め、NCAAトーナメント出場すらも逃してしまう。それと殆ど時を同じくしてデトロイトの地元紙が暴露した、ミシガン大学のリクルーティングに関するスキャンダル。他紙も先を争うかのように大学が関与したこの不祥事を暴き立て始めた。
 カレッジバスケットボールの世界ではいかに自分の大学に優秀な選手を連れてくるかがその大学のチームにとって大きな鍵となる。実際、ミシガン大が9年前に行ったリクルーティングは目の覚めるようなもので、クリス・ウェバー(現NBAサクラメント・キングス)、ジュワン・ハワード(現NBAワシントン・ウィザーズ)、ジャーレン・ローズ(現NBAインディアナ・ペイサーズ)、ジミー・キング、レイ・ジャクソンという新入生5人組(彼らは「ファブ・ファイブ」という名で呼ばれ全米の少年達の憧れの的になった)はスターターとしてチームを引っ張り、2年連続NCAA決勝進出という快挙を成し遂げた。
 しかし、こういったリクルーティングには常に黒い影がつきまとっているのも事実だ。自分の大学の校名を少しでも高めようとするあまり大学関係者はしばしば「ブースター」とよばれる後援者の資金力を借りて優秀な高校生バスケットボール選手を釣り上げようとする。ミシガン大が巻き込まれたスキャンダルでもウェバーやテイラー、トレイラーといったスタープレイヤーの家族やプレイヤー本人への「ブースター」からの資金提供がやり玉に挙げられ、全米中から非難を浴びた。執拗なマスコミによる報道合戦に嫌気がさした彼らはチームに見切りをつけて次々とNBAへ去り、そしてその黒幕の存在を臭わせてしまったヘッドコーチは責任をとって解雇された。
 そんな中、ルイスはミシガンに踏みとどまり、4年間バスケットボールを続けた。どんな非常事態でも眉一つひそめることなく冷静な彼のシュートがチームを勝利に導いたゲームを私は何度も目にしてきた。4年生になって戦力ががた落ちになってしまっても、彼は下級生に「ルウ、ルウ」と慕われ信頼されてキャプテンとしてチームを引っ張っていった。責任感の強い彼はあまりの戦績の悪さに自らのキャプテンとしての資格を疑い、シーズン中は何度も父親に電話をかけ悩みを打ち明けたという。しかし、彼はコート上ではそんな脆さは微塵も見せず、表情を変えない中にも無言の闘志をたぎらせプレイしてきた。
 その彼が、泣いているのだ。こんな多くの人達がいる、満員のアリーナのコートサイドのベンチで。
 「あの時、僕の頭の中にはミシガンで過ごした4年間の素晴らしい思い出が次々と浮かんできたんだ…」ゲーム後開かれた記者会見でルイスはこう語っていた。そこに込められていたのは紛れもなく、カレッジバスケットプレイヤーのほんとうの姿だった。
 アメリカという国は建国されてまだ200年ちょっとしか歴史がない、移民によって成立した国だ。しかしそれだからこそ彼らは自らのルーツを確立し、「幻想の共同体」を作りたがる。大学はそんな状況におかれている人々の「アメリカの伝統」欲求を満たしてくれている存在の一つだろう。大学は会社のようにそうやすやすとつぶれることもないし、また、サクセスストーリーを築き上げた富豪が「慈善事業」の一つとして大学を創設したり、大学に莫大な資金を提供したりすることはしばしば行われてきたことだ。言うなれば大学はアメリカの一般の人々にとっては「良心の結晶」なのだ。
 その「良識の府」は絶対に汚されてはならない。そこに入ってくる学生はその大学の「歴史と伝統に惹かれて」やってくるのであり、いくらスポーツ特待生であっても勉学する意欲に燃えていなければならないことになっている。間違っても勉強なんて大嫌いだけど大学に入っておいた方がコネが出来るからだとか、自分を後援して家族に資金を提供してくれる人物がいるからなんてことはあってはならない。それがピューリタンによって独立自尊の国家を打ち立てられたことを信条とするアメリカの「タテマエ」なのだ。
 しかしアメリカはこの「タテマエ」の裏に公然と「ホンネ」の部分を持っている。この国には、大統領が実習生と不倫をしたのが不道徳だと騒ぎ立てられる一方でバイアグラが飛ぶように売れて人気を博しているような、極端に分裂したところ、極端に二分割したがるところがあるのだ。無理にバスケットボールの世界にそれを置き換えてみれば、それは「清廉潔白な」大学によって維持されているカレッジバスケットボールの世界と「カネと権力争いにまみれた」プロバスケットボール・NBAの世界といったところだろうか。
 1998年の半ばから1999年初めにかけて、NBAは労使交渉の紛糾によって創設以来最初のロックアウトという事態に追い込まれ、多くのファンは「強欲なプレイヤーと更に強欲なオーナー側が、ファンを無視して一般人には信じられないような金額のレベルで話をしている」と非難を次々と浴びせかけた。そして彼らはこう言明する。「こんなカネのことしか頭にない連中より、一生懸命マジメに勉強しつつそれでいてちゃんとバスケットもやっているカレッジバスケットのプレイヤーの方が見ていて本当に清々しいではないか。だから我々はNBAなんかよりもカレッジバスケットを応援するのだ」
 これは白黒をはっきりさせたがるアメリカにとっては非常に判りやすい図式だ。しかし、カレッジバスケットとは、そんなに無垢で潔白な存在なのだろうか。そして、カレッジバスケットボールの世界に早々と見切りをつけてNBAに行ってしまうプレイヤーはカネに目が眩んだ意地汚い奴らであり、逆にそこに4年間留まったプレイヤーは聖人君子のような立派な人物ばかりなのだろうか。
 アメリカのみならず、どこの世界でも事業を運営していくためには資金は絶対に必要なものだ。事業を「上手く」運営していくためには尚更それは事欠いてはいけない。カレッジバスケットボールの世界にしたってそれは例外ではなかろう。チーム力を上げるためには「いいプレイヤー」を入学させなければならないが、とてつもなくいいリクルーティングが出来た場合、「彼らは我が大学の歴史と伝統に感服して自ら志願して入ってきてくれたのだ」と考えるのはあまりにおめでたすぎる。タテマエだけで飯が食えるのなら世の中に労働や金銭など存在しない。
 おまけにこの問題は階級的、人種的な問題も孕んでいる。特にカレッジバスケットボールプレイヤーの中には都市の貧民街で育ったアフリカン・アメリカンの子供が多い。彼らの親は自分達が賃金や雇用機会の点で差別されていることを知っているし、その事から自分の子供にはあまり十分な教育(高い教育はこういった階層の人々が豊かになることができる数少ない機会なのだが、莫大な費用がかかるのだ)を施してやれないことも知っている。たった一人で子供を育てていかなければならない母親である場合は尚更のことだ。だから彼らは自分の子供達にスポーツをすることを教え込む。スポーツは貧民街に住む人達にとってはドラッグや売春や暴力に溺れていかないための唯一の手段であり、また家族が何不自由なく暮らせるようになる可能性をも提示してくれるのだ(勿論彼らは勉強して奨学金を取って大学に行くことも教え込むが、狭い部屋に何人もの子供がひしめき合う中で集中力がいるような種類の勉強が一体どれくらいの人に可能だろうか?)。そして子供達はスポーツをすることによって自分が家族を貧困から救い出すことができるかもしれない、と幼い頃からたたき込まれ、「家族を楽させるために」スポーツでカネを稼ぐ道を必死で模索する。
 そしてスポーツで一流の大学に入学出来るだけの十分な能力を備えた優秀な高校生プレイヤーともなると、各大学からの勧誘の手紙や電話が怒濤のように押し寄せてくる。もしも各メディアの「全米高校生優秀プレイヤー」の30位以内にランキングされようものなら、各大学の獲得競争は熾烈を極めるだろう。なぜならば、そういう高校生を自分の大学に入学させることでその大学の校名は一気に上がり、直接的にせよ間接的にせよ、そのプレイヤーがもたらす利益は莫大な額にのぼるからだ。彼らはまさに「金の卵」なのだ。チーム側にしてもそのチームの成績が伸び悩んでいて学校側の圧力でコーチ陣が解雇されるような危機にあった場合、どうにかして優秀なプレイヤーを獲得しようとするだろう。(意識的にせよ無意識的にせよ)自分の子供を使って何とか貧困生活から抜け出たい親や扶養者の側と、優秀なプレイヤーを何とか獲得したい大学の側。こういった思惑が複雑に絡んでいるところにブースターをはびこらせるなという方がどだい無理な話だ。
 しかしアメリカの「タテマエ」の忠実な僕であるNCAAはそれを許さず、スキャンダルを見つけ次第次々と処罰していく。清廉潔白な世界にはカネはどんな形でも結びついてはいけないのだ。だから「我が大学の歴史と伝統に感服して自ら志願して入ってきてくれた」学生プレイヤー達は勉強のために来たのであって、間違ってもカネ儲けのワン・ステップとして来たわけではないから、奨学金を受け取ったとしてもそのプレイヤーひとりがなんとか生活できる最低の額でなければならない。バスケットボールをプレイすることはプレイヤー個人の問題であって、家族とは何の関係もない。これがNCAAの「タテマエ」なのだ。だがその実NCAAもカレッジバスケットの放映権をめぐってテレビ局やその他の関係者から過剰な接待を受けたり不自然な資金提供を受けたりしているのは周知の事実だ。こんなカネと利権にまみれた組織が大学やブースターや学生を処罰出来る資格があるのだろうか?これならば逆にカネのことをあけすけに前面に出しているNBAのほうがよっぽどある意味では「潔白」ではないか。
 こうなってくるとカレッジバスケットボールのゲームそのものすら疑いたくなってくるのは当然のことだ。あの3月のカレッジバスケットボールの熱狂は嘘なのか。あれは全て利益と打算に裏打ちされた出来の悪い狂言なのだろうか。
 いや、そうではないだろう。どんなに組織の内部が腐ってしまっていたとしても、あのルイスの涙はほんとうだった。どれだけスポーツ特待生が優遇されていて、授業に殆ど出ていなくても卒業してしまうような不自然さがあろうが、彼らがコート上で繰り広げているバスケットボールそのものは紛れもない真実だった。コートの端っこでカメラを構えていた私には、満員の観客の声援がこだましてまるで海鳴りのように振動しているアリーナや、コート上に注がれる熱い視線や、たった一個のバスケットボールを、それこそバカみたいに追い求めるプレイヤー達の真剣なまなざしが嘘だなんてどうしても思えなかった。
 ゲームを決めるフリースローをお互いの手を握りあって真剣に見つめるベンチプレイヤー達。ゲームが開始される前に入り口で輪になって一人一人手を天高く中心に突き上げて祈るプレイヤー達。最後のシュートが外れてフロアにくずおれるプレイヤー達。格上のチームを破った喜びに抱き合うプレイヤー達。そしてコートに向かって雨あられと声援を注ぐ観客達。そこにあるのは「ゲームに勝ちたい」「勝たせてあげたい」。ただそれだけなのだ。
 「縦95フィート、横50フィートのバスケットのコートは僕にとっては違う世界、夢の世界なんだ。そこでは学校の勉強や家族のしがらみ、社会のストレスを思い悩むことはない。たとえその日が最悪の日だったとしても、コートではそんなことは関係がないんだ。自分がいて、チームメイトがいて、対戦相手がいて、一つのボールを追いかけて最高のプレイをしようと頑張る。それだけなんだよ」ノースカロライナ大学に4年間プレイヤーとして在籍したアデモラ・オクラジャはカレッジバスケットボールの世界をこう表現している。一部の超エリートプレイヤーは大学での年限を終えるより前にNBAへと巣立っていってしまうが、それはごく少数のケースであって大多数のカレッジバスケットボールプレイヤー達は4年間の在籍年限をフルに過ごし、学校の代表として活躍し、そして卒業して一般の社会人として巣立っていく。彼らがバスケットボールのコートという夢の世界の住人になってライムライトを浴びることができるのはたった4年間だけなのだ。長い人生の中で4年という時間はあまりにも短い。しかし彼らは魔法が解けたあとでも決してその4年間を忘れはしない。そして彼らは今度は新しく入ってきた後輩達に声援を送る観客となってライムライトを照らし出していくのだ。
 期限4年のライムライト。そこにあるのは沢山の人々の真摯な思いと、そしてひたむきさなのだ。いくら組織が腐敗してしまっていたとしても、そこに関わる人々の裏側にどす黒い思惑が渦巻いていたとしても、このライムライトの輝きはプレイヤーがいて、コートがあって、ボールがある限り毫も褪せることはない。そしてこれが多くの人をカレッジバスケットボールに惹きつけて已まない理由なのだ。

All Copyright Reserved : WOG

Go Back Home