「はっきり云って信じたくない」「理想のカップルだと思っていたのに」「亭主元気で留守がよいという価値観はアメリカ人にはないのかなあ」

これが何に対する誰の意見だか、判るだろうか。

答えは、マイケル・ジョーダンの離婚に対する、日本在住の日本人のファンの感想である。私はああまたか、とうんざりした。

はっきり言っておくが、私は日本在住の日本人のジョーダンファンが大嫌いだ。そういう人間から私がこう発言したことで「アメリカ在住で、ハイレベルのバスケットボールのゲームが常日頃見られる者の傲慢だ」と謗られたとしても、私は一向に構わない。いや、むしろそう言われた方が自分の立場がすっきりしてせいせいするというものだ。以前のコラムでも申し上げたが、日本のジョーダンファンというのは、メディアの喧伝に踊らされて勝手にジョーダンが自分の理想像だ、あるべき姿だと思い込んでいるファンが驚くほど多い。地球の反対側で行われている、遠い国のことをなまじ見られるようになってしまったために、逆に幻影ばかりが強くなってしまった結果が日本のジョーダンファンの姿なのだ。

ジョーダンが2度目のNBA復帰を果たした後、NHKの衛星放送は「神様」ジョーダンの姿を出来る限り見せようと躍起になってウィザーズの放送予定を大増発した。「ジョーダンのやることは何でも神聖で尊い」と崇拝する狂信者のいる日本からジョーダンの所属チームの所在地であるワシントンDCまで、飛行機で約半日。さて、テレビ放送はその半日の距離をゼロにすることに成功しただろうか。

答えは、「とんでもない」である。衛星でのテレビ放送は逆にジョーダン本人とジョーダン信者の「決して同じ地平に立つことはない距離」を更に広げてしまったのだ。

確かに、日本のファンは生中継に近い状態で現在はジョーダンのゲームを見ることが出来る。テレビ画面の向こうでシュートを放っているのはジョーダンその人だ。しかし、その画像には、何重ものフィルタがかかっているのだ。まず、配信元の米放送局のカメラワーク、そして英語による解説、それから受信側の日本のテレビ局の編集、日本語による解説。これだけでも凄まじい屈折がかかっているであろうに、更にジョーダンファン達は各日本の雑誌のジョーダンに関する記事も片端から読んでしまっているのだ。

これらの情報の中に、ジョーダンを非難するような種類のものは、果たしていくつあるだろうか。殆どない、いや、全くない、とさえ言っていいだろう。

理由は簡単だ。「ジョーダンを出して褒めないと売れないから」なのだ。ジョーダン狂信者には信じてもらわなくても全く構わないが、日本のバスケット雑誌とて「雑誌を売るため」に日夜市場原理の元で動いているものである以上、誰が「売れる素材」をわざわざけなす必要があるだろうか。

日本のNBAに関する雑誌が相次いで創刊されたのは1990年代に入ってからのことである。その頃にはジョーダンのいるブルズはドラフトされてから数年間のドアマット時代を抜け出し、昇り竜の勢いを得ていた。つまり、考えてみるに、日本のNBA雑誌でジョーダンはこっぴどくけなされたことがないのではないだろうか。更に、ジョーダンが最初の3連覇のあと、若すぎる1度目の引退をしたとき、これらのNBA雑誌の売上げは大きく落ち込んでしまった。ジョーダンの姿が表紙から消え、ジョーダンの記事が減っていく中で各雑誌はジョーダンの「神々しい」存在をひしひしと感じたに違いない。何せ、ジョーダンが最初に復帰した後、表紙を他のプレイヤーに変えた途端、一気に売上げががたんと落ちてしまったことがあったのだから。ジョーダンは日本のNBA雑誌にとってはまさに金がいっぱい実るイコンなのだ。

そんな雑誌の中に載るジョーダンに関する記事の内容は、と言えば自ずと見えてくるであろう。「より多くの雑誌を売るために」ジョーダンファンに媚びるような記事、ジョーダンファンが自分の中で勝手に築いている神格化されたジョーダン様の像を裏づけするような記事で溢れることになる。そして日本のジョーダンファンはその必要以上に歪んだ内容を持って自らの激しい思い込みに拍車をかけるのだ。

ジョーダンの家庭に関する記事にせよ、ジョーダンファンを満足させるために「非常に仲の良いおしどり夫婦」と書いた方が、「他のアメリカ人家庭と同じように、子供の養育や家事分担などをめぐって葛藤している夫婦」と書くよりもはるかにファンの持つ神様ジョーダン像は強化されるだろう。いや、もし、後者のように書いたのならば、たちまち雑誌側は購買者の中でも最も巨大な勢力である一連のジョーダンファンから総スカンを食い、売上げはがた落ちとなるだろう。だから彼らは絶対に印象を悪くすることは書かない。

さて、日本のジョーダンファンの中のどれだけの割合、この悪循環に自覚的な人がいるだろうか、と問えば「絶望的」と答えざるを得ない。ジョーダンを褒め称える記事を読み、幾重にもジョーダンが素晴らしく見えるようにフィルタがかけられたジョーダンのゲームを見て、彼らは自らどうしようもない無限循環にとらわれていることを気づかず、一介のスポーツ選手を、まるで全知全能の神であるように思ってしまっているのだ。

故に、「ジョーダン離婚」という、いわゆるネガティブなニュースを聞いたとき、こういうジョーダンファンは「信じられない」という反応を示してしまう。なぜなら、ジョーダンは自分達のヒーローであり、神様であり、マイナスなものは何も持っていない存在であるからだ。彼らはマイケルとワニータという二人の夫婦が、結婚した夫婦の半数以上は離婚するというアメリカ合州国に住んでいる、ということは考慮の外だ。

大体において、一般のアメリカ人の中には「亭主元気で留守がいい」などという観念自体、存在しない。私が住んでいるところが特に保守的な地方都市であるせいもあるが(因みにジョーダンの育ったのと同じ州であるので参照されたい)、ここに住むアメリカ人はまず仕事よりも家庭を大事にする。どんなに忙しくても、どんなに一家が離散して生活していても、クリスマス、そして感謝祭の時期は一家が揃って団欒をするのが何より尊い、とされている。子供が病気になれば仕事を放り出してでも看病にかけつける。そして、一家の子供は結婚して新しい世帯を持つまで、何かあればまず家族のもとに駆けつける。私のかなり昔のルームメイトだったアメリカ人の女の子は、家が他州にあるにもかかわらず、毎木曜日になると枕を抱えて実家に帰っていき、月曜の授業時間ぎりぎりまで実家で過ごして帰ってきていた。それほどファミリーというものはアメリカ人にとっては心の支えとなるべきものなのだ。だから、アメリカに住んではいても日本の感覚で仕事をする日本の会社の駐在員の家族は夫がいつもいない。そういう日本人家族の姿を見て、アメリカ人女性は駐在員の妻にこう言うのだ。「家族を支えないような夫だったら、どうしてあなたは離婚しないの?」(1)

これが日本だったらどうなるか。住宅事情が悪く、家賃が非常に高い、とか、交通費がとてつもなく高い、という理由もあろうが、例えば東京に下宿している学生が毎週のように静岡なり福島に帰る(大体その元ルームメイトの所在地がこれぐらいの距離だったので便宜上挙げる)、というのははっきり言って「交通費と家賃の無駄遣いをしてまで一体何で家に帰らなきゃいけないの」と思われても仕方がなかろう。いや、日本の場合女の子だったら新幹線通学、ということで家との結びつきを強くしている場合もあろうから、まだなんとか納得できるかもしれない。しかし、私が大学の学生寮に住んでいた当時、木曜日の午後や金曜の昼になると女だろうが男だろうが三々五々枕を持っていそいそと実家に帰っていく学生達が数多くいた。この姿は日本人にとっては奇異に映ってもおかしくないだろう。

こんなアメリカで単身赴任をする、というのは余程の家族とパートナーの理解が得られない限り、難しいことなのだ。アメリカに暮らしてみれば判ることだが、アメリカは多くの場合「カップル単位」で物事が進められるため、独り者はかなり孤独な思いをすることが多い。それに、まだ女性が料理を作る傾向がわずかながら残っているとはいえ、その他の共有財産や、掃除、洗濯など、家庭内のことは夫婦が細かく相談して解決する、というのは当たり前のことなのだ。

この辺りは日本とアメリカの家庭に対する感覚の違いかもしれない。日ごろ日本で暮らしている日本人にとってはアメリカの家庭については「離婚が多い」としか入ってきていないかもしれない。そして、(古い)日本人の感覚では「離婚=不幸」ということが先立ってしまう。勿論、アメリカ人の場合でも、家族というのは日本人と同じく「憩いの場」であり、「とても大切な場」だというのは変わらない。しかしながら、それに加えてアメリカ人にとって家庭とは、「各人が家族の構成員として勤めるべきことはちゃんと果たさねばならない場」でもある。もし家族、極言すれば夫婦の内のどちらかが、家庭内でお互いに支えあい、当然と思われる役割を果たしていなければ、その人は家族の構成員として失格であり、相手から離婚訴訟を起こされる結果に至る。(2)

アメリカでは、夫婦共稼ぎ、もしくは家族全員で家業に参加、という形で仕事をしている家族が圧倒的に多い。それは成人男女の賃金格差が少ない上に、大人一人の賃金だけでは全く家族を養えないからである。だから、父親だけが稼ぐ、という今まで日本のようなモデルでは考えることは難しい。夫婦が共に稼ぐことによって金銭面で家計を維持している以上、大事なのはお互いの「家族を支えあうための努力、家族を第一に考え、幸せを築こうという努力」なのだ。

こういう実態をわかっていない日本人はジョーダン夫婦の離婚について、そしてその後ワニータがマイケルに対して財産の半分を要求していることについて、こう思うに違いない。「あれだけ夫が金を稼いでいるのに、一体何の不満があるのか。我慢は出来なかったのか。そのくせ、半分も財産を要求するなんて傲慢ではないか」しかし、こう思う彼らはアメリカの夫婦の現状(=共稼ぎが当たり前で、お互いに精神的に支え合う努力が必要)を理解していないどころか、今までの日本の「夫は充分な金を家庭に持ってさえ来れば後は何もやる必要がない」という「常識」に捕われていることを自ら暴露しているも同じではないだろうか。アメリカにおいて、夫婦が子供と共に一家族を構成する以上、家族の持ち物は平等であるし、また、夫婦は家族の中で子供を育て導くための指導者として双方が充分な任務を果たさなければいけない。ワニータの離婚状は、とりもなおさずマイケル・ジョーダンが自らの3人の子供を養育していくための任務(金銭的な話だけでなく、子供たちに対する精神的なケア)を充分に果たしていなかった、という紛れもない証拠を示した。ジョーダンはただでさえ有名人であるがために自らの子供を世間からの好奇心の目から守らなければならない役割を帯びている。それにもかかわらず、彼は「自分の満足のために、傾きかけたNBAの財政を潤すために」バスケットボールを選び、親として側にいて子供を守ることを放棄してワシントンに行ってしまった。そんな夫の態度に妻が離縁状を叩きつけるのは、当然のことだろう。

加えて、日本のジョーダンファンは「亭主元気で留守がいい」という言葉を発することによって更に自らの時代錯誤な思い込みを暴露してしまったことになる。私が本文中、くどいように日本のことを「今までの日本」と記述してきた理由もこの辺りにある。

「亭主元気で留守がいい」=「夫は充分な金を家庭に持ってさえ来れば後は何もやる必要がない」という思考モデルは1960年代から始まった高度経済成長期に形成されたモデルだ。つまり、第一次ベビーブーム世代がちょうど成人する時期、家庭の中に余った多くの子供(日本の父系長子単独相続モデルにおいては次男、三男は「ただ飯食らい」である)が、工業地域や都会に流れ、小さいながらも「一城の主」になり、パパママ子供の核家族を形成した。「妻が主婦として一家を家事・炊事・洗濯・子供の養育面で支える」「夫は金銭面で家庭を助け、自分は会社に対して滅私奉公する」というのは、とりもなおさず、江戸時代までの武士(=上流階級)の家庭のモデルであり、一般人はこのモデルを獲得したことによってつかのまの「心理的階級上昇」を味わった。会社側もそうした事情を鑑みて「家族手当」などで、普通の成人一人分の給料でも家族全員が財政的にやっていけるように配慮した。右肩上がりの経済成長の時代には、会社に滅私奉公してくれれば必然的に生産量も上がり、そしてそれが売れることも必然視されていたから、より多くの資本を得ることが可能だった。妻の側も、今までのような嫁姑の関係に振り回されない核家族のモデルを歓迎し、妻にとっての自分の場所の獲得(=台所)を謳歌していた。

しかし、日本の右肩上がり・左うちわの時代はおよそ1世代(=家族社会学的な単位で言えば約25年)の間しか続かなかった。1990年代のバブルの崩壊は、日本的雇用(=江戸時代の武家社会をモデルにした終身雇用と昇進および給与における年功序列)モデルに大きな疑問符を投げかけた。それと共に、前世代に形成された「核家族の中で夫が稼ぎ、妻が家を守る」モデルも次第に傾きかけてきている。一生懸命働いても、作ったモノ(もしくはサービス)が右肩上がりで売れることがない時代がやってきてしまったのだ。売り上げが増加しなければ、給料アップは据え置かれる。しかし、「健全な資本主義社会」においては物価の値段は微増していくから、給料の値段は変わらなかったとしても相対的に価値が下がるから、夫の給料だけではやっていけなくなる。「それが嘘だ」と思うのであれば、現在、学齢期を迎えた子供を持つ家庭のどれほどが父親側の給料だけで年々増加していく子供の学費の支払いを負担していけるか、考えてみるとよいだろう。

女性が再就職ないしパートタイム制労働によって家計を支えるために、家を出て働くようになったのは既に1980年代から始まっていた現象だが、バブル経済の崩壊によって、彼女達が得てくる賃金は現在の日本の一般家庭にとって、なくてはならない重要な部分となった。これは「男は会社、女は家」モデルの崩壊の萌芽であったとともに、「夫は家族を養うに足る給料を持ってこれば、家のことは妻に任せておけばよい」という高度経済成長期の「常識」が最早通用しなくなった、ということをも示してはいないだろうか。女性も賃金労働者となって家庭という巣に給料を運ぶようになった以上、「金を稼いでくる」というのは夫の特権ではなくなった。しかるに夫側と言えば、多くの者がその変化に疎く、いつまでも「給料を運ぶだけで・・・」と大仰に構えて自分達は彼らの家庭の精神的支えにならねばならない、ということに気が付かない。妻たちから離婚届を叩きつけられて初めて、夫達は自らの時代錯誤な考え方に気づき、おろおろとまごつくばかりになってしまうのだ。男が何も家事ができなかった時代は、夫が家にゴロゴロしていても何の役にもたたないために「亭主元気で留守がいい」だったかもしれない。しかし、中学・高校と家庭科教育が男子生徒にも必須教育として組みこまれ、また、法的に育児休暇制度が夫側にも認められつつある今、「亭主元気で・・・」などと言っていたら、自分の子供の面倒は誰が見るのだろうか。バブルが崩壊した現在の日本の家庭では夫が金を稼ぎ、妻が家事と育児をする、というような性別役割分業ではもはや成り立たない。夫婦が協力し合って賃金を家に運び、また協力して家事や育児をしなければどちらにとっても不幸になってしまうのだ。

それでも「母親の味が一番」と自らの子供時代にフィルタをかけて懐かしんでいる男性は多い。そういう彼らに私はこう物申したい。「ということは、あなたは企業の生産効率第一の裏で深刻な公害病に苦しんでいた人々や、自分と子供しかいない狭い家の中で誰にも自分の悩みを判って貰えずノイローゼに苦しむ妻達、男と女とは平等だ、と教えられたのにお茶くみしかさせてもらえず、飾り物扱いされている女性達の姿も、もう一度現実に戻って欲しいと思うのですね?」(3)

辛いことが多い世の中、夢でも見なければやっていけない、という気持ちは私にも痛いほど理解できる。しかし、現実の変化を的確に捉える作業なしに自分の思い込みや偏見で物事を判断するのはとても危険だ。ジョーダンファンにとってジョーダンが憧れの存在であること自体は否定しないが、彼はアメリカ社会という、日本社会とは全く異質の社会に住む、ひとりのスポーツ選手であり、人間だ。そんな彼に、違う社会に住む日本のファンが自らの幻影や憧れをすべて押し付けてしまうのは、あまりにやりすぎであろう。「夫は稼いでくるだけで十分」と、日本でも既に変化しつつあるような思い込みをジョーダンの家族に押し付けているのは、他でもない、ファンその人だ。それなのに、彼が離婚すれば「信じられない」「裏切られた」などという気持ちになる。それは他でもなく、彼らは自分自身が勝手に築きあげた幻影に対して裏切られているだけなのだ。こういうファンに、ハローキティやポケモンがアメリカ原産のものだと信じて疑わないアメリカ人を嗤うことが果たしてできるだろうか?

夢を見ることは現実逃避とは違う。夢を見ることによって現実の姿に気づき、現実の社会と自分なりに付き合っていくことこそが、夢を見る最大の効果ではないだろうか。夢多き人間を愛し、支えてくれるパートナーはいるかもしれないが、自分ででっち上げた根拠ない妄想にまで付き合ってくれる人など期待しないほうがよいだろう。相手から離縁状を叩きつけられる前に、もう一度自分の姿に気づいて欲しい。

ジョーダンは、神様でもなんでもなく、アメリカという違った社会に住む、ひとりのバスケットボール選手でしかない、ということを。

注記

(1)
勿論、ビザの関係で駐在員の妻というのは就労することがアメリカの移民法上禁止されている、ということも関係しているが、こちらのアメリカ人はそんなことは全く知らないのでこういうセリフを吐いたとも取れる。しかし、日本の社会制度を色濃く持ち込んでいる駐在員の家族は、この違いから、なかなかアメリカ社会になじむことができず、多くの駐在員が住むニューヨーク近郊などでは駐在員の家族同士が集住する「日本駐在員村」ができてしまっていることも確かだ。

(2)こういうアメリカの家庭の特色を知らずに、ただ「離婚が多い」とだけしか知らされていない日本人にとっては、アメリカの家庭は余程荒んでいるんだ、と思い込むもとになる。普通の日本人にとってはアメリカの家庭というものは、ホームステイでもしないかぎりは全く縁がないであろう。身近なテレビ番組や雑誌のスクープなどからしか判断材料がないために、雑誌やテレビがドラマ仕立てにしているものをすべて真実だと思い込み、挙句の果てには「やっぱり日本が一番だ」と感じるようにさせている番組制作者や著作者の思惑にからめとられてしまうことになる。


(3)この日本人の思い込みには日本独特の大衆文化であるマンガも寄与しているところが多い。多くの男性は青年マンガや少年マンガを読んでいるが、そこに描かれている世界は「男同士の戦いの世界」であって、「戦いの中では女は不要。女は影で支えているのが一番だ」というファロスティックなイデオロギーが見え隠れしている。

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