2000年9月、日本に「ドリームチーム」と言われるアメリカ代表のバスケットボールプレイヤー達がエキジビジョンゲームを行うためにやってきた。
 その時、ふと気がついたことが、「殆どが日本人(のように見える)のに日本を応援している観客が非常に少ない」ということだった。時折、テレビに映される観客達は殆どと言っていいほど「USA」のユニフォームに身を包み、各プレイヤー達に対するメッセージボードを掲げてアメリカチームの応援をしていた。日本との人気の差はゲーム前の練習でのカメラのフラッシュの差に如実に現れており、チームUSA側の観客席からはほとばしらんばかりの光源が焚かれていた。勿論私が見たのはアメリカで放映されたものであるから、「アメリカファン」をより多く映そうとした意図も考慮に入れざるを得ないが、それにしてもゲーム中日本に対する声援の少なさが目立ったゲームだったような気がする。(1)
 「USAファンばかりの日本人観客」という特徴はその3日後にメルボルンで行われたオーストラリア対USA戦を見たときにより強く感じた。オーストラリアの観客はNBAのユニフォームを着ている若者が結構な数いたとしても、多くの人々は地元開催国のオーストラリアを熱狂的に応援し、すこしばかりもめ事があった時には容赦なくUSAの選手にブーイングを浴びせかけていた。ある国でゲームが行われるときはこういう状態になるのがむしろ自然ではないか。テレビを見ていたアメリカ人(2)はUSAのユニフォームを着てテレビ画面に手を振る日本人を見て「何故彼等は日本人なのに日本を応援せずにUSAを応援しているのだろう」と殆どの人が訝しんだだろう。勘違いしたナショナリストの中には「よしよし、奴らは我らが偉大なるアメリカのバスケットボールがそんなに好きなんだな。いい傾向だ。条約を結んで兵隊を駐屯させているだけのことはある」と、相変わらずの独善的アメリカニズム的理由付けで納得している奴だっているだろう。
 勿論、この差は日本とオーストラリアのバスケットボールの実力の差ということにも現れているのかも知れない。開催国のため自動的に出場権が与えられているとはいえ、世界のレベルでもそれなりに実力が認められているオーストラリアと、アジアの中ですらなかなか上位のレベルに行けない日本。(3) 観客の熱狂度も違うのは当然のことなのかもしれない。
 では、論点を変えて、「日本人であのゲームを見に来ていた観客達はUSAのバスケットボールが本当に好きなのか?」と問うてみよう。
 答えは明らかだ。
 "NO."
 もしホントに彼等がUSAのバスケットボールが好きなのであれば、このゲーム以外のUSA関連のゲームでも熱烈にUSAを応援するだろう。しかし、毎年夏にやってくるUSAカレッジ選抜対全日本のゲームなどでは、観客は圧倒的に全日本の応援に回っている。
 彼等はアメリカのバスケットボールが好きなのでなく、「NBAのスタープレイヤーが集まったチーム」が好きなのだ。


 NBAの上層部はバルセロナオリンピックでの「元祖ドリームチーム」をきっかけとして更なる経済的収入の求め先を「世界のマーケット」に定め、「マジック・ジョンソン」「マイケル・ジョーダン」「シカゴブルズ」などの目玉商品を筆頭に長身のプレイヤー達が繰り広げる激しいゲームを売り込んできた。
 脅威の経済成長をとげ、世界中から「金満国」と目されてしまっている日本はNBAにとっては格好のターゲットであったに違いない。また、日本側から見ても常に「新しい刺激」を求める日本の文化消費者にとって、「今まで考えていたものとは全く違うバスケットボール」は大きな衝撃で、それだけでも人々の購買意欲をそそるものであったろう。同時に今日の日本の大衆文化でかなりの比重を占めるマスメディアにとっても「パッケージ化された商品」は、それを取り入れるだけに値する収益が得られるのであれば、自前で作る(4)よりも遥かに労力は少ないという点で非常に魅力的だ。
 こうした売り込む側と消費者側の利害が一致して、NBAは日本という経済的に非常に巨大なマーケットを取り込むことが出来たのだ。加えてバルセロナオリンピックの後、「マイケル・ジョーダン」という存在が「シカゴ・ブルズ」というチームに次々と勝利をもたらしたことは、全くNBAを知らない人々に対する「商品の売り込み」の際に必要な「コンパクトでインパクトのあるキラー・コンテンツ」を完璧な形で準備した。
 かくして、日本の各地にNBAファン、もっと言えば「マイケル・ジョーダンファン」が出現することになった。(5) 日本という、ジョーダンの活躍するUSAという国に行くには10時間近くも飛行機の中で我慢しなければならない場所に住む日本のマイケル・ジョーダンのファンは地理的条件、経済的条件に制限され、よっぽどの度胸と資金が無ければ生のままのジョーダンを見ることは不可能なことだった。
 その結果、彼等は少ない放送、及び日本に「輸入」された際に更に「情報整理」されたニュースからしかジョーダンの姿を知ることが出来ない。(6) 一方、日本でバスケットの情報を流すマスコミに関しても「ジョーダンを表に出さなければ売れない」ということは知っているから、必然的にジョーダンに関する良い記事、彼のもの凄さ、素晴らしさを讃える記事ばかりになる。(7) こんな情報に囲まれればNBAを知らない、もしくは知ったばかりの日本人は否応なく「にわかジョーダン教崇拝者」になってしまうのは致し方ないだろう。日本に住むファンはジョーダンをテレビでは見られても実際に手にとって見ることができない。ジョーダンという存在に「遠い、神のような存在」を重ね合わせてしまったとしても日本の中で一体誰が彼等のことを正々堂々と嘲笑することができるだろうか。
 問題なのはジョーダンファンが沢山いることではない。それだったらアメリカにだって掃いて捨てる程いる。日本のファンのNBAに関する知識の持ちよう、もしくは態度こそが問題なのだ。ジョーダンばかり、シカゴブルズばかりにまみれた日本のマスメディアの中で涵養されてきてしまったジョーダンファンは、極端な場合、ジョーダンを崇拝の余りジョーダン以外の、シカゴブルズ以外のNBA、もしくはバスケット一般のプレイやゲームを一切認めようとしない。(8) 更に具合の悪いことに日本において大衆文化としてのスポーツは飽くまでも「娯楽」であり、「二等の文化」としか位置づけられていないために、彼等が世にも偉大な勘違いをしているということを改めて指摘する人もいない。もしいたとしても「質の悪いお節介」としか思われず、「ほっとけよ」と言われるのが関の山だろう。臭いモノにフタのぬるま湯の中で勘違いを更に増殖させた彼等は自らの満たされる可能性の少ない「プレイヤーとの直接の出会い」を補填するべく、ゲーム放送や情報だけでなく、プレイヤーのサインの入ったトレーディングカードやユニフォームを買い、少しでも多くNBAの香りを身に纏おうとする。
 彼等のジョーダンに関する卓越した知識は認めよう。しかし彼等は困ったことにそういう知識だけでアメリカのバスケットを全部知った気分に、そしてそれがある意味特権とでも言いたげな、高飛車な態度につながってしまっていることを知らない。自分たちが接しているNBAという商品は、アメリカという複雑な事情を抱えた国が培ってきたバスケットボールという一現象の中の、ほんの上澄みでしかないということを知ろうともしていない。彼等の頭の中ではアメリカでのバスケットボールは主にNBAしか存在しない。故に日本で田臥勇太のようなそこそこ優れたプレイヤーが出てくると、「すわ、NBAか?」という途中経過を抜いた荒唐無稽な話が導き出されてしまうのだ。
 日本のマスメディアの側からいっても、バスケットが培ってきたものやアメリカとバスケットとの関係を詳しく掲載するよりは、各プレイヤーのゴシップ的エピソードの方がどうしても「売れてしまう」から、それらを中心に編集せざるを得ない。
 その結果、来日したチームUSAのプレイヤーが全てブラックであっても、日本のファン達は「黒人は運動能力が優れているから」という型どおりな印象しか抱かない。(9) 黒人達がUSAという、見かけ「自由」を標榜しながらその実言語を絶するような人種差別を平気で行ってきた国の中でどれだけ苛酷な扱いを受けてきたかを併せ持って考えることが出来ないのだ。


 同じことが音楽の世界にも言えるだろう。近年はヒップホップ文化が日本でももてはやされ、それをアメリカで支えてきた黒人が「クール」であるとされてきた。しかしながら、彼等の見ている「ブラック」は「カッコイイ」存在でしかない。ブラック音楽のファンが頭をコーンロウやドレッドにしてみたり、日本語でラップを歌ってみたり、ラップの中に出てくる言葉を真似したりするのは、単に黒人達の持つ「カッコイイ雰囲気」の一部を分捕って自分がカッコよくなりたいだけだ。彼等の一体どれだけがアメリカの黒人達がこれまでどれだけ狭い、限定された世界に閉じこめられて来たかを知っているだろうか。
 ラップという音楽が、経済的事情のために楽器すら買えない状況の中で生まれてきたものだということを、どれだけが知っているだろうか。そんな中、彼等が辛うじて手に入れることが出来たLPレコードとレコードプレイヤー、そして街角や廃材置き場に転がっているドラム缶のリズムによって創造されてきたものがラップであり、そのライムの中には彼等の生活そのものや社会状況が凝縮されたものだ、ということを「流行り」でラップを捉えている人々の何割が知っているだろうか。
 ドレッドやコーンロウのような髪型だって同じことだ。黒人達は縮れ毛を生まれついて持っているために、そのまま髪を伸ばしてしまえば爆発したようなヘアスタイルになってしまう。これは相対的に髪が縮れていないマジョリティたる白人の間では「不格好」とも映ってしまいかねない。なんとか縮れている髪の毛をまとめてすっきり見せようとした努力から考案されたものがドレッドやコーンロウなのだろう。(10)
 こういったアメリカの黒人達が抱えてきた歴史や文化を知れば、買いたい楽器が大抵手に入り、すっきりと見えるまっすぐな髪をもった日本人が「カッコイイから」と見かけだけ無理矢理真似をすることがどれだけ奇妙なことか、判らないだろうか。
 日本人の無邪気なだけに救いようのない無神経な「かっこよさ」崇拝は時にアメリカの黒人を怒らせることだってある。
 以前、スパイク・リーが監督した映画「マルコムX」が日本で封切られたとき、一時的に「マルコムX」ブームが日本で起こり、マルコム関係のグッズやアパレルが店頭にならんだことがあった。
 日本人は「今ちょうど封切られている映画のTシャツだから、カッコイイだろう」と思って買ったのだろうが、それを着ている姿を見たある黒人は憤った。
 「お前達は黒人の歴史を知らない癖に、そんなものを着るのか」
 日本人はあれだけ日常生活の中でアメリカを意識させられているにも関わらずおめでたいことに相手が何を喋って何に怒っているのか判らない。結局、憤った黒人と一緒にいた友人が彼をなだめて一件が不時着した。
 アメリカの黒人の中ではマルコムXは、偉大な革命家、理論家として未だに根強い崇拝を受けている文化的アイコンだ。憤った黒人は、自らの抑圧されてきた歴史を、少々ラディカル過ぎる形だったにせよ暴き、同胞に対し抵抗と自尊心を訴えてきた英雄マルコムが、何も知らない(知ろうとしない)日本人にTシャツとして着られているのが我慢できなかったのだろう。


 ここで少し芸術と大衆文化、資本主義について触れておこう。
 音楽や美術と言った表現芸術の分野は封建時代の支配者と結びつくと「文化の定型化、御用文化化」が起こる一方、拡大再生産を主眼に置いた資本主義文化と結びつくと、「飽くなき更新」を求めるようになる。消費者も管理する側も絶えず「新しい形」を求め、消費する側が「飽きないように」絶えず新しい要素を盛り込んで購買意欲を増進させなければいけない。
 アメリカの大衆音楽はこれをモロに体現した歴史を展開してきた。ある音楽が「時代遅れのもの」になると、新しい要素を移民や異人種、異国、もしくは「旧き良き時代」に求めてきた。
 20世紀中葉、大衆音楽界にとって、黒人の、限定されてきた状況の中で培ってきた音楽や躍動するリズムは大きな魅力だった。プロモートする側はこれをなんとか大衆の音楽に取り込めないかと考えた。しかし、マジョリティである白人にウケるためには黒人がそのままスクリーンに出ては売れない。(11) 求められたのは「黒人のリズムを、音楽を体に取り入れた白人」だった。
 黒人が多く住み、そして同時に人種差別も最も激しかったディープサウスに位置するテネシー州メンフィス育ちのエルビス・プレスリーが出現し、ロックンロールが勃興したのはこういう経緯があってのことだった。幼い頃から黒人達の音楽に囲まれてきたエルビスは、売り出す側にとってはニーズを最高に満たした存在だった。
 因みに、アメリカにおいては売り出す側、プロモートする側は圧倒的に白人によって占められている。結局の所、黒人の文化が大衆文化の一部として認められるか否かは彼等白人資本の意向ひとつにかかっている、と言ってもよいだろう。今でこそ黒人資本や黒人経営者が多くを占めるヒップホップの世界にしたって、その源流であり本家であるDef Jamレーベルは元々はユダヤ人(12)の青年リック・ルービンによって創始されたものなのだ。そしてDef Jamそのものも現在は白人資本による大企業CBSの傘下のレーベルなのである。


 話をアメリカとバスケット、そして日本に戻そう。チームUSAが日本を訪れたとき、日本で上映されていたのがマイケル・ジョーダンの「トゥ・ザ・マックス」という、ジョーダンの活躍をまとめた短い映画であったことは日本の大衆文化としてのバスケットボールを非常に如実に表したものではなかっただろうか。彼等にとってはジョーダンがアメリカのバスケットボールであり、チームUSAはジョーダンの衣(オーラ)を纏ったプレイヤー達なのだ。
 個人的にはこういう機会にこそ「フープ・ドリームス」という映画をどこかで放映(もしくは公開)して欲しかったように思う。日本に住む人々には普段、アメリカのバスケットボールがブラックコミュニティの日常の世界ででどれだけの重要性を占めているかを知る機会が少ない。この映画は、ゲットーの黒人達が貧困から抜け出すために、どれだけ血眼になってバスケットやラップ---彼等が経済的、文化的参加制限の中で必然的に生み出した産物であり、白人が支配する資本によって辛うじて認められている領域---に取り組まざるを得ないか、自分たちの見ているNBAというエンターテイメントはこうした社会状況の中で構築されたバスケットボール文化のほんの一部でしかないか、そして上澄みであるNBAがいかに資本主義に支配されている組織であるか、という現実を多少なりとも頭の中で像を結ぶことに関して大いに助けとなる気がするのだ。そして、彼等がNBAを見て飛びついたところの「日本では絶対に考えられなかった形でのバスケットボール」は多かれ少なかれ、「体育や部活の延長でしかないバスケットボール」と「社会の中でそれなりに裕福な生活を営む手段がそれ以外見つからないというぎりぎりの状況でのバスケットボール」の差にあることに辿り着いて欲しいのだ。
 勿論日本人が「ゲームとして、エンターテインメントとして」NBAを楽しむこと自体に関しては異議は唱えない。金まみれだろうがなんだろうが、彼等が世界でも稀なる素晴らしいエンターテインメントとしてのバスケットゲームを提供していることは誰の目にも明らかだ。
 ただ、上澄みだけを見て全てを見た気になったり、輸入された文化的イメージに対して何の問題意識もなく提示されるまま取り込んでしまったり、それを「カッコイイこと」と履き違えて周囲に自慢したりすることは、裏を返せば自分の中の固有性や創造力の可能性を自ら遮断してしまっていることになりはしないだろうか。
 勿論、現代のような様々な情報が氾濫する時代において、全ての作業、全ての言葉を疑ってかかるなど、神経衰弱を引き起こすだけだろう。しかし、せめて自分が関心を持っているものや人に関してだけでも、その背後に潜む文化や歴史を探ってみてはどうだろうか。こうした作業が開始されて初めて、日本に輸入されたバスケットボール文化やヒップホップ文化は中味のあるものになるに違いない。


脚注
(1)これには日本人のスポーツゲーム観戦時一般における「お行儀良さ」も多分に影響しているであろう。彼らは「静かに集中して見ること」を教育の中で強制的に訓練されてきたからだ。

(2)実際の所こんな結果の分かったゲームをわざわざ見るような物好きなファンはあまり多くはなかったのだが。

(3)勿論開催国枠以外でのオリンピックへの出場権など夢のまた夢なのが日本のバスケットボールの現状である。

(4)バスケットの場合で言えば、日本のリーグをもっと活気あるものにするためにプロ化支援もしくは積極的な資本投下を行い日本の全体的な実力を上げさせることなどが該当する。

(5)途中のプロセスには、アメリカに進駐軍という形で強姦されて以降、あらゆる面で「アメリカ崇拝」を強迫観念として持たざるを得なかった日本人の心理傾向も大いに寄与している。

(6)むろん、インターネットの普及でアメリカのマスコミの流す情報をそのまま入手できるようになってからは多少の状況的変化が見られたことは付言しておこう。

(7)ウラの話をしてしまえば、1999年にジョーダンが引退するまでの間、日本のバスケ雑誌はジョーダンが表紙の時とジョーダン以外が表紙の時ではあからさまに売り上げ部数に差が出ていたそうである。

(8)実際、私はそういうジョーダンファンには嫌という程遭遇した。私のMJ嫌い、MJファン嫌いはここに起因する。

(9)勿論、これは裏返せば「黒人は運動をするしか脳がない」という昔のアメリカの白人によって捏造された人種差別的プロパガンダの質の悪い焼き直しとも言えよう。

(10)ついでにいえばアメリカの黒人の女性達は自らの髪を何とかストレートっぽくすっきりと見せようとするために毎朝40分近くも鏡の前でドライヤーやヘアアイロンと格闘しなければいけないのだ。

(11)商品が売れるか売れないかは資本主義社会にとって最大の指標である。

(12)アメリカ社会においてユダヤ人は白人であると共に、アメリカ資本の中で巨大な勢力を誇っている。経済の中心地ニューヨークはジューイッシュマネーが昔から幅を利かせてきた都市として有名である。

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