2004年06月11日(金)  「心の闇」という言葉で隠蔽されたもの
 小学6年生の少女が同級生を刺したというニュースがここ数週間の間トップニュースとなっている。

 各メディアの記者やコメンテーターは、その加害した少女が殺害を決意した契機がインターネットのチャットやBBSの書き込みにあったと報道し、いかにもインターネットをできない世代(そしてその代わりにテレビをよく見る、いわゆる団塊の世代)に「やはりインターネットは怖い。近頃の子供は怖い」と、いかにも「これだから今の若者は・・・」という愚痴を引き出させようとするような報道をしている。

 そして、得意げに「最近の若い子のコミュニケーションの手段はインターネットに変わってきた。昔は手紙、それから電話、そして今はインターネット」と論じている。

 勿論、通信技術の革新過程を時系列的に考察すればその通りなのだが、こうした手段の変化が公的機関や学術機関だけでなく、広く民間に行き渡ることとなった経済的社会的要因については一向に考察を加えずに、「通信技術の発達が引き起こした悲劇」というように論じているような気がしてならない。

 特に電話からインターネットへの通信技術の変化には常時接続が一般家庭でも安価に実現できるようになったことが大きな要因として存在するだろう。

 というのも、それまで(インターネット以前)の一般家庭での主な通信手段であった電話やファックスは依然として現在でも従量課金制であり、電話の長さに応じて料金が増加する形式をとっている。つまり、電話が長くなればなるほど料金が高くなるわけで、例えば一般家庭でも話し好きの娘(=小学校高学年〜高校生ぐらいの少女)が長電話をしていれば「いい加減に切りなさい(=払うのは親だ。あなたが喋れば喋るほど金を払わされるのは親である私たちなんだから少しは制限しなさい)」と家族からプレッシャーがかかることとなる。

 インターネットにしても最初の頃はやはり電話回線につなぐ形式をとっていたために、一般家庭では「いい加減に切りなさい」という文句が来ていた。それは、一方で「つなげばつなぐほど料金がかかるから」という理由もあったり、もう一方で「インターネットに接続しているとかかってきた電話に出られないこともあり、困る」という理由もあった。

 そうでもなければ唯一従量制を免れる午後11時から午前8時までの、「テレホーダイ」の時間(=普通の家族は寝静まっているから迷惑もかからない)にインターネットに接続し、通信を楽しんでいだ。(こういった当初の性格はインターネット利用者の深夜族的傾向、およびアングラ的傾向を産み、その痕跡は今でも「2ちゃんねる」などにもまま見られる)

 ところが、ADSLや光通信を初めとした高速回線の普及は、従量課金制という「通信の壁」を破り、常時接続を一般家庭でも気軽に利用できるぐらい安価なものに変えた。また、インターネットを接続していても外からかかってきた電話を受け取れるようにもなった。

 つまり、一般家庭の消費を統括する立場である親が、子供がインターネットに接続したからといって経済的および物理的な原因を理由にできなくなってしまったのである。否、それどころか依然として電話が従量課金制である現状を考えると、むしろ親の側から「電話は料金がかかるから使わないように。なるべく電子メイルなどのインターネットで友達との用事は済ませなさい。」と明示的にせよ暗示的にせよ子供に暗黙の圧力(といって、強制的に聞こえるならば「指導」でもよい)をかけていたとは考えられないだろうか。

 この背景には長引くデフレ不況により、個人消費や各世帯ごとの消費が相変わらず落ち込んだままであるということも大きな要因であろう。ボーナスの支給が減り、年々月収も減らされていく家計のことを考えると、まず「不要」と思われるところから消費量を減らしていくことが考えられよう。そうなった場合、従量課金制である電話はなるべく控え、幾らつないでも同じ料金であるインターネット接続の方を、特に「専業消費者」でありテクノロジーに対するアレルギーもない子供に奨励する親がいない、と果たして言い切れるだろうか。

 こうした社会背景(長引くデフレ不況による世帯ごとの消費削減傾向)と経済的要因(従量課金制の電話より常時接続で一日中接続できるインターネットの方が「得」である)が、子供達を専ら電話よりもインターネットに向かわせているのだろう。

 そう思うのも、私が何年か過ごしたアメリカ合州国では少年少女のメディアを取り巻く状況が明らかに日本と異なり、それに従って友人とのコミュニケーション状況も違ってきているように思えるからである。

 アメリカ合州国においても、DSLと呼ばれる常時接続は存在するが、その料金は日本の2〜3倍(大体$45〜60)と、明らかに高額であり、アメリカ合州国の購買力平価から考えても一世帯でこの金額を月々払っていくという決心をするのはなかなか容易ではない。勿論合州国でも中の上以上の階層に属する世帯は、まずDSLなりケーブルなりを備えているが、それより下の、非常に数は多いが年収は非常に少ない世帯にとってこの値段はかなりの高額なのである。よってこの階層(恐らく合州国の5分の2以上を占めるのではなかろうか)の世帯はパソコンは買うが、ダイヤルアップ接続のみにとどめたままである。ダイヤルアップにした場合、かかってきた電話に出られないわけだから、従って子供がいつまでもインターネットに接続していた場合親は「かかってきた電話に出られないからやめなさい」と言うことができる。

 一方、電話の方はと言えば、実は合州国の電話料金は地元エリア内と遠距離では統括の電話会社が違う。そして地元の同じ局番のエリアにかける場合、基本料金のみになる。また、遠距離においてもある一定の条件と契約を結べば$20前後月々払うだけで国内の通話には全く課金されない。つまり、ニューヨークからハワイに一日1回2時間かけても、月に$20払うだけで済むのである。

 更に、携帯電話においても、価格競争のおかげか、基本料金プラスアルファを月々払うだけで特定のエリアにおいては課金されなくなる。ビジネスに携わる人々などは月に$100を携帯電話に費やす場合もあるが、実は彼ら彼女らは全米でひっきりなしに毎日のように携帯電話を使うわけだから、逆に「お得」になるのである。

 こうした傾向から、小学生や中学生といった、まだまだ地元エリアのみにたくさんの友人を持つ子供たちは専ら電話がコミュニケーション手段となっている。

 また、アルバイトなどで収入を得た高校生などは、早速携帯電話を購入する。携帯電話も課金制ではないので休みの日にはショッピングモールのあちらこちらで携帯で会話をしている。携帯電話においても、日本のように「携帯メイル優位」ではなく、「会話優位」という気がする。


 話を少女殺害事件に戻す。「書き言葉による暴力的表現は時に話したときよりも遥かに深く人を傷つけることがある。だから電話ででもいいから喋っていればよかったのに」とコメンテーターは当を得たようにコメントしている。

 確かにそれは正解で、だからこそ注意をせねばいけないのであろうが、それ以前に日本の一般家庭において、何故そこまで電話よりもインターネットの方が広がってしまったのか、その辺りも考察する必要があるのではないだろうか。

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