2003年11月10日(月)  女性と政治
 昨日、衆議院議員選挙が行われた。様々な人々が色々な文脈でこの選挙については分析を加えているが、個人的に気になったのは女性議員の数だった。

 日本の国会の女性議員の数は改選前の35から一つ減らして34となった。これだけであれば特段論じるまでもない変化かもしれない。しかしながら、最近耳にしたルワンダの選挙の結果から考えると、その差は歴然としている。なぜならば、女性議員の国会での占有率は日本は7.1%と、マスコミに言わせれば「先進国最低」であるからだ。

 日本の女性議員の数の少なさは何も「先進国」というプライドを込めた枠組みを加えなくても、国会並びにそれに近い制度を持つ世界各国174カ国の中で改選前で130位という低さだ。国家の人口の半分を担っている存在でありながら、この国でいかに女性が政治の世界からつまはじきにされている存在か、良くわかるというものである。日本の社会制度においては女性は依然として「マイノリティ」なのだ。

 今回の選挙で争点となったものの一つに「年金制度の維持の是非」があった。現在の年金負担者の未納率が実に40%近くに達してしまっている今、年金制度に対する不信感が特に若い層の間で募っているわけであるが、この年金制度の危機は現在日本が抱える少子高齢化問題と密接に結びついている。

 現在日本は、医療技術の発達によって人間がより長く生きるようになった一方、子供が生まれなくなっている。しかし、「少子化」と「高齢化」は必ずしも似通った性質を持っているものではない。「高齢化」のほうは技術が発達した先進国では避けられようのない問題であるが、「少子化」の方は社会制度の改革によって減少傾向を食い止めることができる問題である。福祉先進国であるノルウェーでは「パパ・クォータ」という父親の育児休暇制度(半強制的)の導入によって、1.5前後だった出生率が2.2にまで回復したという実績もある。「少子化」は制度の実施如何によって可塑できる性質を持っている、といえるのではないだろうか。

 いま、日本で出産適齢期にある女性が子供を産まないのは、何も「産まない」と固く決心した人ばかりがいるわけではなく、「産みたくても産めない」という袋小路的状況に追いやられているからではないだろうか。

 教育制度の平等化によって、女性も学歴を持つようになり、それにしたがって社会進出も果たすようになった。しかしながら、現在の日本の社会制度はそうした社会で活躍する女性に対して余りに厳しい。先ごろ、自民党の73歳定年制について話題に上ったが、この国の政治にせよ経済にせよ、中枢を占めている男性は殆どが団塊の世代か、それより上の年齢の男性ばかりで、この世代は「パパはおそとでお仕事、ママはおうちで僕の世話」という性的役割分業モデルを当然のものとして育ってきた世代であり、また、「困ったことに」このモデルによって日本が大々的な経済成長を遂げてしまったために、このモデルに固執してしまっている世代である。

 しかるに、このようなモデルは既に破綻を来し始めて久しい。その兆候は既に1980年代にはそれまで「専業主婦」とされていた女性のパート労働参加現象によって散見されていた。

 90年代、そして00年代に入るにつれ、ますます多くの女性が教育を受け、労働現場に参加するようになると、いよいよこのツケは「少子化」という現象に現れるようになった。仕事とキャリアを持った女性にとっては、自分に任せられた仕事を放り出すわけにはいかないからどうしても身体的に慎重にならざるを得ない出産は後回しにしてしまうし、パート労働に出た女性にとってはそれは「子供の教育費のため」であるから、少しでも支出を減らすために最もいい方法は「子供を産まないようにすること」であるからだ。

 ここで賢明な人ならこれまでの文で私が家庭というファクターと女性ばかりを結び付けて論じてきたことに気付くであろう。そう、日本の家庭や育児の現場において、男性、そして父親の存在は余りに薄く扱われすぎているのだ。子供を育てるのは別に母親でなければならない必要はないはずであり、もっと言うならば、子供に父性を教える事は非常に大切なことであるにもかかわらず、日本の現行の社会制度のもとでは家庭生活における父親の精神的役割は付録程度にしか扱われていないし、それがどこかで何らかのアンバランスを来してしまうのではないかと危機感を持っている人もあまりに少ない。

 勿論、その原因の一つはこの国の中心を担う人々の性別役割分業制度(=過去の成功したモデル)への固執もあろうが、女性が経済成長時代から比べて多くの人々が社会進出をした分、比重が落ちてしまった分を補填する役割を男性が放棄していることにも、原因の一端は求められるだろう。子供を育てる、という大切な役割は女性だけでも、男性だけでも無理なはずである。むろん、昔ながらの「伝統的社会」だったらコミュニティ内の全員で責任を持って育てるということもできたであろうが、地域流動性が増し、核家族化が究極までに進んでしまった現在の状態(特に都市部)において、それは不可能に等しい。とすれば、男性も育児や家事に参画することしか家庭の円滑な運営は望むべくもない。

 と、ここまでは男性を批判してきたが、女性側にも非がないわけではない。昔、アメリカに住んでいたころ、ポーランド人の年配の女性から「日本の親の男の子への甘やかし方は、本当に最低。アレでは息子をだめにしてしまうわ」と言われたことがある。つまり、日本の親は、父親だろうが母親だろうが、男の子の場合、ちやほやさせすぎで、人間としての責任や自律を学ばせていない、というのだ。

 この話で思い当たるエピソードがある。最近ではあまりニュースにもされなくなったが「日本の親は自分の子供として女の子を欲しがっている」というCNNのニュースがそれである。「なぜ女の子なのか?」と問われたある女性は「年取った時に自分の世話をしてくれるから」と答え、そして、これと同じような理由で女子を望む親が多いとCNNは報じていた。つまり、とりもなおさず、日本の親は女性には介護などの仕事を押し付けることができるが、男性にはそのような仕事はしなくてよい、と考えているのだ。親が女の子が欲しいのは、女性の地位が向上して、自分を経済的に楽させてくれると言う理由などではなく、自分の奴隷として娘を縛っておけるから、というなんとも性差別的な理由なのだ。このような内容を母親予備軍となる女性が答えていた、という点でこのCNNのトピックスは余りに皮肉ではないか。このような思考を変えない限り、日本の男性が女性が社会進出した分の育児や家事を担うことは困難であろう。

 話を政治家に戻すが、女性が政治の世界に進出できていない理由の一つが、「そういう道が女性にとって容易であるように用意されていない」ということがあるだろう。例えば先述したルワンダでは国会の定数のうち30%を「女性議員への割り当て」として用意されていたものであった。世界の国の中にはこのように、政治的な地位の平等を目指して国会議員の女性への一定数の割り当てがなされている国も多い。女性は国家の半分を担う存在であり、社会制度の動向に重要な役割を果たすから、というのがその理由だ。

 しかしながら、日本では、小渕優子や田中真紀子のような存在でもない限り、政治の世界を一心に目指すなどという行為は非常に困難だ。女性として政治に貢献しようと思っても、現在のところそうした道は明らかに「男用」にしか出来ておらず、できる限り性差別を払拭した教育を受け、政治学に興味を持った女性がいたとしても、道のりは余りに厳しい。

 私がよく覗く掲示板の中の一つで、辻元清美や田嶋陽子をこきおろしていた掲示板があった。その管理者は石原慎太郎支持の男性であり、多分彼は社民党の不甲斐なさや不整合性を痛烈に批判したい、というのが本来の目的であったと察することはできるのだが、同時に私は彼の言葉からは「女性の政治家は碌なのがいない」と女性に侮蔑の視線を投げているような気がしてならなかった。

 日本では、女性の政治家には碌なのがいない、というのではない。碌でもないものしか出られなくなっているのだ。それほど、日本の女性にとって政治の世界というのは道が固く閉ざされているのだ。大きな夢を持っていても、結局は「男向き」にしか作られていない現在の社会制度の下で女性は大きく厚い壁にぶち当たってしまう。このような世界で男共ばかりが、「自分たちだけが社会を担っているのだ」と気取って年金制度や少子高齢化対策について、もっともらしい議論を並べたてたとして、一体どれだけの説得性を持ちうるだろうか。
 社会は、女性と男性がバランスよく参画して作り上げてこそ、望ましいものが実現できると私は思う。


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