2003年07月10日(木)  もし世界が100人の村だったら
 先日、このようなタイトルのつけられたテレビ番組が放映されていた。私はそれを少しばかり視聴していたが、作りのわざとらしさに見るのを途中でやめてしまった。
 このタイトルは、インターネットのメイリングリストなどで話題に上り、出版された本からとっている。現在の地球の人口は65億人。それを100人に縮めたら、どのようなことになるか・・・。
 とりもなおさず、これは南北問題、持てる者と持たざる者の格差を取り扱い、問題意識を提起させる狙いがあることが判る。
 しかしながら、結局こういった内容をテレビ番組として取り扱うことは、また、違った視点をも喚起せざるを得ない。

 番組では、マンホールで寝泊りするロシアのストリートチルドレンがシラミ退治のために劇薬を頭からかぶっている姿や、インドで一日12時間以上機を織って絨毯を作り上げる少女達を見て、番組のコメンテイターであるタレント達が涙している姿を大写しにする。
 確かに彼らのおかれた状況は悲惨で、それを映像という判りやすいメディアによって提示されれば誰しも深く考えざるを得ないだろう。
 しかし、テレビという媒体は対象との感情の共有を強制し、更に自らが存在する場所についての問題意識から切り離してしまう存在でもある。すなわち、「ああ、かわいそう」から始まり、「やっぱり日本にいてよかった。あんな悲惨な暮らしをしなくてもよいんだ」といった一連の言説を呼び起こす。
 例えば、テレビに登場したロシアのストリートチルドレン二人を「かわいそう」といって、何か物をあげて「救ってやった」としても、世界の多くの都市のストリートチルドレンの問題を解決したことにはならない。それどころか、ロシアのそういった貧しい子供達を取り上げることによって、「ロシアは貧しい国」という印象すら与えかねない。
 実際のところロシアはすでに80年代から経済の停滞は進んでいたのだが、ソヴェト政権の崩壊によって、社会主義システムがなし崩し的に瓦解し、代わってどうにか成立した資本経済も外国資本とマフィア資本によって絶えず脅かされている状態だ。ロシア全体が悪いわけではなく、一部に富が集中しすぎていることにより、ストリートチルドレンのような子供達が族生してくることが問題であろう。それが、テレビでストリートチルドレンを取り上げると、その辺の構造が全く取り上げられることなく、「ロシアは貧しい人々が多い」ということになってしまう。
 更に、ロシアはその昔ソヴェト=ロシアとして東側諸国の「盟主」として君臨していた国であり、その国のストリートチルドレンを、他の国のストリートチルドレンと同列に扱うことはできない。例えば現在ロシアからの分離独立を求めロシアとの武装闘争が絶えないチェチェンにストリートチルドレンがいたとして、彼らがおかれた状況を語るにはソヴェト時代及び現在の共和国体制時代のロシアとの緊張関係を抜きにはできないはずだ。
 そのような微妙な関係性をテレビという媒体はあまりに暴力的直接的に「かわいそう」というコンテクストにつなげていはしまいか。その視点は結局のところ、19世紀前半に、実際の黒人奴隷の生活を体験しもしていない北部の人間達が『アンクル・トムの小屋』を呼んで「ああかわいそう」と思い、奴隷解放運動に参加し、その結果黒人が北部(彼らの生活領域)に進出してくると、南部以上に激しい差別感を以って黒人に接した姿と同じことである。

 そしてこの言説が最も危険であろう「日本に住んでいてよかった。日本人でよかった」という認識に繋がってしまうことは容易だ。
 問題はそのような単純化されたものではありえないであろう。「そのような番組を、テレビというテクノロジーの産物であるメディアを通して、日本という国で見ている自分」という現在の姿に結びつけることができたならば、まだ上等な方かもしれない。しかし、それにしても、その「見ている自分」がこの格差を解決するために自らをダウンサイズしようとは全く思わないかもしれない。なぜならば、そもそも資本主義経済(特に日本が崇拝するアメリカ型資本主義経済)というのは拡大のためのシステムであり、自らは無自覚であっても、ひとりでにアップサイズしてしまうような性質があるからだ。
 更に、「日本に住んでいてよかった、日本人でよかった」という感想は、2つの問題をはらんでいる。
 一つは、日本国内のさまざまな問題(例えばリストラによるホームレスの増大や若年層の無力感や自殺など)を全て「なかったこと」や「些細な問題」にしてしまうことが挙げられよう。日本人による在日コリアンや同和地区民への差別問題や、非情なまでの難民政策のような政策的・社会構造的な問題は「外国のかわいそうな子供達」というイコンの前に雲散霧消してしまうのだ。勿論国際間の絶対的な経済格差は否めないかもしれない。しかし、だからといって経済状態が良くなれば犯罪は全くなくなるわけではなく、新しい構造上の問題を抱える契機にもなっていることを無視してはいけないだろう。
 もう一つは、これが最も危険なことであろうが、日本の人々がこういった貧しい国の人々に対して「差別的な目」で見ることを助長しかねない点であろう。テレビで「貧しい国」と報道されたからといって、全ての人が貧しいわけでもなく、また、人間としての能力が劣るわけでもないのに、「格下」のように扱うことは、人間として最も醜いことだと私には思われる。勿論、それは我々が日本人としてプライドや誇りを持つなということではない。私は、結局は日本の人々の中に根強く残っているような白人コンプレックスにまでつながるような、「比較され得る」プライドは持つなと言っているのだ。 

 勿論、こういった番組で南北問題への関心を喚起することは全くの悪であるとはいえまい。もし、この番組がなければ、そういった問題にすら気づかなかった人々も多くいただろう。
 しかし、テレビは見えにくく説明しにくい社会構造上の問題を全て個人単位の問題にまで暴力的に還元してしまえるような、非常に危険な面も持ち合わせている、ということを同時に知っておくことが必要なのではないだろうか。


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