finding Forrester

7/12

 長いことほったらかしにしてしまったが、実はWOGはこの6月末にて所属していたUNCCharlotteの歴史学科から修士号を貰い、晴れて卒業できることになった。今は引越しの準備やら、旅行の準備やらに追われてなかなか日記を書く気になれなかった。

 アメリカでの勉強も一応めどがついたことだし、とWOGが向かったのはブロックバスター。見たかった映画”Finding Forrester”のビデオを借りるためだった。で、見て最初の感想は「…3年もいたのにセリフが聞き取れない自分って…」だった。仕方がないので見た後に知識の補填として邦題である「小説家を見つけたら」のウェブサイトに飛んでしまった。

 さて、映画の感想。WOGはアメリカ滞在中殆ど映画を見なかった人間であるので(バスケットボールのシーズン中は忙しすぎて見にいけないし、第一学校も忙しい。シーズンでない時は、どちらかというと音楽を聞く方を好む人間である)、この作品が「グッド・ウィル・ハンティング」とかぶる(実際に監督が一緒である)という多くの映画ファンのような感想もそれほど持たなかった。

 この映画の舞台はニューヨークであるが、都市としてのニューヨークの描かれ方が何となく「レオン」に似ている。都会ではあるけれども、それほど雑音が感じられない背景。主人公の一人である黒人の少年の出身地であるサウスブロンクスも実際よりも随分と清潔に描かれていたような気がした。(ただし、放火された車の演出はちょっとわざとらしすぎる気がした。)ショーン・コネリーが主役の一人として偏屈な老作家を演じている。最初はいかにもな感じのスコティッシュアクセントの英語で登場したのだが、黒人少年との交流の中で段々とアメリカンアクセントに馴染んでいく、その喋り方の変わりようがまた面白かった。

 さて、その黒人少年演じるロブ・ブラウンであるが、超人気映画サイトである「ぢごくみみ」の管理人akoさんは「彼はとてもかわいい。もっと映画に出て欲しい」といった趣旨の感想を書いておられたが、黒人少年を見慣れたWOGにとっては「ルックスだけ取るのだったらあの程度の少年ならこの辺にも沢山いる」との感想を持った。WOGの中ではロブ・ブラウンはそれほど美しい黒人少年の範疇には入らない。むしろ、彼をあれだけ魅力ある少年のように撮りあげた製作者の方を褒めたい。勿論、ロブ・ブラウン本人の演技に対する努力もあっただろうが、撮影側のスタッフの照明や効果が彼を実際以上に美しく見せている。最初のシーンで英米文学の名作の本の山の中で(ジョイスの「フィネガンズウェイク」まであったのには笑った)まどろむジャマール、というシーンは全シーンを通して、最高の映像美を見せてくれたシーンのひとつだった。

 話の筋は次のとおりである。ブラウン演じる黒人少年ジャマールはバスケットボールが得意だが、文章を書くのも得意で、その両方が認められて名門私立プレップスクールに特待生入学を許される。その過程で偶然であった大作家との交流の中で文章の才能を開花させる、といったもの。よくありがちなストーリーであるし、「白人メンターと黒人少年」という紋切り型の関係、といった批判もあちこちから聞かれる。

 WOGはと言えば、この映画を見て「ああ、やはりこれは映画なんだな、作り物なんだな」との感想を持たざるを得なかった。少年ジャマールの描き方がファンタジックすぎるのだ。大体、文学をテーマにするのであれば、何故老小説家に認められるほどの文才を持った少年が「バスケットボールも得意である」という属性まで必要になってくるのであろうか。その辺りが「黒人少年=バスケットボール」というこれまた先入観に基づく等式をより強めてしまっているような気がしてならなかった。勿論、映画なのだから見ごたえのある、動きのある映像も必要、ということで求められたのがスポーツでありバスケットボールだったのだろう。それに、ブロンクスやハーレムのプロジェクト(低所得者用高層ビル)ではバスケットボールが黒人少年たちにとっては一番身近なスポーツであることも事実だ。しかし、バスケットボールでなくても、フットボールやサッカー、野球でもよかったと思うし、それ以前に、成績が抜群に良くて、文才もあると言うのならば、それだけで名門プレップスクールに特待生入学しても良いではないか。端的に言って、ジャマールと言う一少年に多くのものを詰め込みすぎた結果、実際の世界の事実からは乖離してしまっているような印象を受ける。

 趣味と実益から、WOGは黒人少年達にそれなりに接し、また彼らに関する情報に多く接する機会を持っているが、バスケットボールで名門プレップに特待生入学を許された多くの少年達は既にそのことを「ビジネス」として捉え、「学業とバスケットボールの成績を伸ばさなければ学校にはいられない」と、放課後遅くまでシューティングの練習にいそしみ、そして練習が終わると夜遅くまでクラスについていくためだけの勉強にはげむケースが殆どだ。加えて、プレップスクールのコーチ達が彼らの私生活を厳密に規制してしまう。練習が終われば家や寮にまで電話をかけ、ちゃんと勉強しているかどうかを厳しくチェックするコーチも多い。大抵の名門私立プレップスクールは「ビジネス」のためにこういったコーチを雇っているわけで、コーチ側としても「名門校の名を汚さないように」プレイヤー達の素行には充分目を光らせなければいけない。よって、映画の中でのジャマールのように放課後を毎日のように学校に全く関係ない人物であるフォレスターの家で文章を書いて夜遅くまで過ごすことは「バスケットボール特待生」にとっては殆ど不可能なのだ。

ついでに、特待生として入ったジャマールのバスケットボールチームでマイノリティのプレイヤーがジャマールのほかに一人しかおらず、あとは型で押したような白人坊ちゃんばかり、というのもかなり不思議だった。通常こういった「名門私立プレップ」というのは学校の名声を高めるために多くの「スポーツは得意だけど、成績は及第点」といった少年に奨学金を与えて入学させ、バスケットボールの対校試合に「学校代表」として出場させる。映画で設定されていたようなレベルのプレップチームだったらもっと多くの黒人やヒスパニックの少年プレイヤーがいてもいいはずだし、彼らとの交流を新たなストーリーのアクセントにも出来たはずだ。しかしながら、映画の中ではジャマール以外のマイノリティのプレイヤーは「対戦相手」としか描かれておらず、ジャマールの話し相手になっていたのは白人のクラスメイトだった。ジャマールとフォレスターとの関係にこだわるあまり、プレップスクールでのシーンが平板になりすぎているのだ。

WOG的にはバスケットボールの才能か、文才か、どちらかにして欲しかったのだが、それはあまりに現実的過ぎる設定なのだろうか。加えて、媒体としてヴィジュアル的な面が全面に押し出されてしまう「映画」というイレモノの特殊性のおかげで、ジャマール少年のバスケットボールの才能は充分に見せきれた反面、静的要素が強い文才の面については登場人物のセリフからの推測など、状況的な蓋然性の中でうやむやにされていたことも否めない。特に、最後の見せ場でフォレスターがジャマール少年の書いた文章を朗読する辺りなど、カットせずにその美しい(であろう)文章をコネリーの素晴らしい演技付きで全部読んで欲しかった。朗読された文章が音楽によってさえぎられてしまう、あの内容では「本当に文才のある少年なのだろうか?」と疑念を持たれかねない。

 この映画のテーマのひとつとして「文学の才能のあるマイノリティの少年が周りとの偏見と戦う」ということもあるかもしれないが、前述したようにストーリーがジャマール少年の文才をそれほど全面に押し出せていないために、結局、もうひとつの才能であるバスケットボールに食われてしまっているきらいがある。何もアメリカの黒人はスポーツや音楽だけに秀でている存在ではなく、勉学を修め、社会人として立派なキャリアを積んでいる人々だって多くいるし、そちらの方が多数派でもある。この映画のある種偏った少年の描かれ方は、特に黒人人口の少なく更に人種偏見に満ちている日本の人々にとっては非常に危険だ。「インテリジェンス分野で活躍する黒人」の存在よりも「スポーツと音楽に秀でた黒人」という旧来の紋切り型の方がクローズアップされているために、日本の人々の中では「結局黒人はスポーツ」と、実直にがんばる前者の実在が後者の偏見の中に収束されてしまっている可能性だって充分に考えられる。これでは偏見と戦うどころか、新たな偏見の誕生すら助長していることにつながってしまわないだろうか。


ところで、この映画のジャマールの「文才」面での設定でWOGの頭に浮かんできた人物がいた。レジナルド・シェパードという1963年生まれのアフリカン・アメリカンの詩人なのであるが、彼もニューヨークの下町出身で(たしかブルックリンだったと記憶している)、いわゆる黒人の、エネルギッシュで口語表現が多用された詩型とは一線を画した、とても繊細で、それでいて直線的な詩を書く人物である。日本ではアメリカ詩の研究者以外はほとんど知られていない詩人なのだが、アメリカ本国では非常に高く評価されている黒人詩人の一人である。

アメリカではアフリカン・アメリカンというと、文学志向がどうしても「アメリカ黒人文学」に向かってしまう傾向(そしてこれは一種の偏見でもあろう)があるが、この映画のジャマールの文学的興味はそれとは違い、いわゆる「英米文学」のカッコで表現されるような作家、バナード・ショウやポー、もしくはジェイムズ・ジョイスといったような、どちらかと言うと、文学批評家や思想家が喜びそうなテクストを書く作家に向かっている。レジナルド・シェパードも、「黒人詩といえば口語体やラップ」という型からは大幅に外れた、批評受けする詩を書く。(ゆえに彼はアカデミズムの世界で高く評価され、現在はコーネル大学でアメリカ詩を教授している。)彼の興味の向かうところはアフリカではなく、ギリシャやエジプトといった古代の神話の世界なのだ。そして、シェパードは「いわゆる黒人」の典型(=偏見)からは逸脱した、非常に気難しく偏屈な、まるで映画の初め辺りのフォレスターのような人物なのだそうだ(…という話は、私が授業で受けた詩人の先生からの情報だ)。映画中、黒人少年達と集まって喋っているシーンで言葉少なに状況を見守り、また周りからの雑音が絶えないプロジェクトの自宅の中で英米文学の本に囲まれて小説を書くジャマールの姿が、WOGには、やはり狭いブルックリンのアパートで、周りの物音に悩まされつつギリシャやエジプトの古代世界に想いを馳せるシェパードに重なって仕方がなかった。

最後に蛇足となるが、この映画にはジャマールの兄役でバスタ・ライムズが出ていたのが個人的に面白かった。彼本人としてはちゃんと演技をしているつもりなんだろうが、WOGの目には「ああ、バスタがセリフ喋ってる」と映ってしまった。彼のラップはWOGも好きだし、味があるキャラクターだとは思っているのだけれども、映画の中で「役」ではなくて「地」がどうしても覗いてしまっている辺りが1ラップリスナーとして忍び笑いを禁じえなかった。

ホームに戻る