『アメリカ合州国』を読み返す

4/20,2002

 久しぶりに更新したが、更に更新はこの後2ヶ月無いと思っていただきたい。こちらも卒業がかかっているので、その辺の文句は勘弁して欲しい。
 4月にニューヨークに行った際に、古本屋で本田勝一の『アメリカ合州国』が売られていたので購入した。勿論、私はこの本を読んだことはあるが、もう15年以上前の話だし、しかも図書館で借りたものだったので、手元には一冊もコピーはなかった。
 15年ぶりに改めて読み返してみて、如何に本田勝一がジャーナリストとして1969年当時のアメリカ合州国を描ききっていたかに感心した。尤も、ジャーナリストは現場主義なので、本田氏が経験した事件の中には今現在では「知識としての、常識としての自己防御」として教わっている部分を本田氏が知らなかったために遭遇してしまった類のものも幾つかあったが、それをここで指摘しても、後発者の傲慢でしかない。
 この本の内容が朝日新聞に掲載されてから一世代以上(家族社会学のコーホート分析では一世代を25年と考えている)たった現在では、これらの「事実」はまるで当たり前のようになっている。しかし、この本が出版された当時の日本の世論のさまざまな反響は、1970年前後の一般的日本人が如何に「アメリカ的事実」を隠蔽されて育ってきたかを如実に示していたのではないだろうか。
 勿論、本田氏のジャーナリスティックな論調には研究者の端くれとして少々観念的に、そして結論を急ぎすぎる点も感じたが、多くの人がこの本に対して語った「誇張が過ぎるのではないか」といった印象は微塵も感じなかった。なぜなら、この本が出版されて30年以上経った、そう、その時に生まれたばかりの赤ん坊だった人間が社会を支えるようになった今でも、アメリカ社会は本田氏がルポルタージュした多くの問題点を未だ解決できていない(いや、解決しようとしていない)からだ。
 確かに三十年の歳月は黒人中産階級の人口を増加させ、本田氏の描いたような「黒人=被差別=貧困」という等式は必ずしも成立しにくくなっているし、有色人種だというだけでホテルを断られることもまずなくなった。しかし同時に、この三十年でアジアから合州国への移民は爆発的に増大し、90年代には深刻なアジア系に対するヘイト・クライムも勃発し、新たな差別問題が発生した。
 一方、相変わらず狭く不毛な居留地に押し込められたネイティブ・アメリカン(アメリカン・インディアン)は高い失業率と女性の十代での妊娠・出産、そして深刻なアルコール中毒者の蔓延に(ネイティブ居留地は酒類の販売が禁止されているにもかかわらず)苦しんでいるし、黒人の貧困層は高い犯罪率が記録され、「黒人ゲットーで男の子が18歳まで生き延びられたら本当にすごいこと」とまで言われている実情はまったく変わらない。
 そして、何よりも私が本田氏の的を得た描写として最も感銘を受けたのは「南部の目」だった。南部に住む外国人の私が、日頃感じるあの、一部の白人からの冷たい視線をこれ以上的確に表した表現はないだろう。本田氏の『アメリカ合州国』は決して過去の、色褪せたルポではない。なぜなら、未だにここの白人は、五人に一人ぐらいの割合で「よそもの」、特に人種的マイノリティに冷たい、根拠の無い憎悪を持った「南部の目」を向けるからだ。「それは三十年前もそういう視線を送っていた人々、つまり年配の人だけなんじゃないの?」と反論する向きもあろう。だが、私個人の経験を言わせて貰えば、「南部の目」は年配者からだけでなく、若者からも発せられたし、しかも男性だけではなく女性からも「南部の目」は私に向けられた。「それはあなたが外国人だからじゃないの?」という反論もあろう。確かにどこの国に行っても妙な発音でその国の言葉を話す外国人の存在は煙たがられるし、それは私も承知の通りである。しかし、同じ外国人として学生で来ているのに、何故日本からの黄色人種である私は冷たく扱われ、イギリスからの白人留学生には「南部の目」は注がれないのだろうか。一般的にリベラルな人々が多いとされるアメリカの大学の内部ですら「南部の目」は確実に次世代に再生産されているのが現状なのだ。
 「南部の目」をした傲慢なアメリカ人の若い女子学生(私の過去のクラスメイトの一人だった)は、「貴方の英語は速すぎる。もっとゆっくり話して」とお願いした私に対して「そんなことは出来ない」と言い、私のそれ以降の発言は一切無視した。それでいて自分が外国(メキシコ)に行った経験を、写真を交えて得意げに語るその姿には、怒りを通り越して呆れさせられた。彼女はそんな目をして、今やアメリカの白人資本に侵略されつくしたメキシコに行って、一体何を見てきたと言うのだろうか。
 本田氏は本著のあとがきの中で毛沢東の言葉を引用し、「われわれは敵を愛することはできないし、社会の醜悪な現象を愛することはできない」とし「自分を殺す相手を「理解」しながら殺されるよりも、戦うのは当然です」としているが、正にそれは「南部の目」をした白人に対して私が思っていることを代弁している。
 私は一生懸命彼らを理解しようとはしたのだ。しかし、彼らは全く理解しようという意思すら持たない。彼らが持った人種偏見はそれほど強力なのだ。そんな状態でも右の頬を打たれたら、左の頬を出せ、黙って侮辱を受けろなどと言う聖人のような真似は生身の人間である私には出来ない。向こうがあからさまに話し合いの気が無い場合にどうして自分の方がわざわざ折れなければいけないのだろうか。
 先日MTVを見ていたら、レポーターの一人が日本を旅行する、という趣旨の番組が放送されていた。彼は日本のラブホテルやブルセラショップなど、普通の日本旅行ガイドでは案内されないようなところを”underground”と表現しつつ、興味本位にまくしたて、いかにも「教養の無いアメリカ人」の典型を演じていた。私が怒り心頭に発したのは、彼が日光東照宮を訪れた時にした彼の行為をテレビ画面で見たときだった。彼は日光東照宮を訪れ、「なんの建物かわかんないけど、多分宗教的なもんなんだろうね」とテレビに向かって語りかけながら(この時点で私の中での怒り度は中程度に上がった。日本に来るなら歴史建造物ぐらい調べてこい。もしくは番組スタッフが知らせろ)、東照宮の石段でつまづいて転んだ日本人の参拝客に向かって、こともあろうに大音量のスピーカーで嘲り笑ったのだ。
 彼は日本人がそういった種類の侮辱を一番嫌う、ということを知って、故意にやったのかもしれない。しかし、彼がそれを行った場所は、日光東照宮なのだ。確かに東照宮は宗教建築物としてはあまりに派手過ぎて日本人にもあまり好きでない人がいるであろうが、曲がりなりにもアメリカのどの主だった教会建築物よりも年月を経た「聖なる場所」でスピーカーの大音量で他人を嘲る、という行為は、日本人の宗教心や精神風土に対する侮辱としか私の目には映らなかった。私がもしその場にいたら石段を下りて突進し、そのスピーカーからマイクを外して「あなたがたはミラノのドゥオモの中でも同じことが出来るのですか?」と問い詰め、東照宮の宮司さんの所に彼らを謝罪させに行かせたに違いないのに。このような最悪の番組が若者の視聴者の多いMTVでやっていること自体、アメリカ人の人種偏見の再生産を積極的に促しているいい証拠ではないか。
 はっきり言えば、アメリカの、特に一部の白人は傲慢なのだ。自分たちは世界で一番なんだからどこで何したっていい、自分たちの国の言葉と常識がどこでも通用すると考えて行動する彼らは今や、世界の嫌われ者になっているのだ。9月11日の同時多発テロは確かにアメリカ史上稀に見る凄惨な事件だった。しかし、テロリスト達はただ、謂れの無い偏見を持った白人がアラブ世界を見る目をそのままアメリカという国に返しただけなのではないか。あのテロでの一番の犠牲者はWTCに入居していた商社マンやビジネスマンでも、果敢に助けに行って犠牲になったNYPDやFDNYの人々たちでもない。生活するために白人資本の会社にメッセンジャーやデリバリーやセキュリティなどの下働きとして朝早く出勤していたマイノリティの人たちなのではないか。彼らは自分達がはっきりアメリカの白人資本に支配されていることを自覚している。しかし、彼らにはアラブのテロリストのようなことはできない。なぜなら、彼らの生きていく国はいかに差別されようが、苦しい生活を強いられようが、そこしかないからだ。テロリストの犯した最大の過ちは、私に言わせれば、彼ら自身の、一部の白人的偏見を裏返しただけの論理なのであり、「アメリカ」という形の無い敵の前にそういったマイノリティの存在を忘れてしまったことにあると思う。
 私がヨーロッパを旅行した時のことだった。イタリア経由でフランスのニースに入り、宿を取ろうとホテルのコンシェルジェさんと片言の英語でやり取りをしているところに、いかにもアメリカ人という雰囲気の重そうなバックパックを背負った大学生らしい女性が入ってきた。彼女は早口のアメリカンアクセントでまくし立て、泊まれる部屋を探している、と訴えた。それに対し、中年を少し過ぎたばかりのフランス人男性であるコンシェルジェはゆっくりと、だがはっきりとしたフランス訛りの英語で「私は英語が喋れませんから、よく判りません」と彼女を追い出してしまった。女性が諦めて出て行ってしまった後、コンシェルジェは何事もなかったかのように私と英語でやり取りを続けた。
 つまり、彼は英語が理解できなかったのではない。自分の国を我が物顔のようにして歩く傲慢なアメリカ人には女性であろうが学生であろうがホテルを貸したくはなかったのだ。私はその時、してやった、ざまみやがれとほくそえんだが、私のこの感情は果たして低級なものなのだろうか。
 ここまで書いて、一応注意してもらいたいのは私が今までの文章中で「白人」と類型化せず、「一部の白人」とか「「南部の目」を持った白人」と特定的に表現してきたことである。私は別に白人全員を責めるつもりはない。それでは結局テロリストが犯した過ちを繰り返すだけでしかない。

 私個人の場合、大学在籍の研究者というある意味ブルジョワ的な環境にいるお陰で私の周りには黒人よりもむしろ、白人の方が友人や知人は多いし、理解のある白人は本当に親切で、有難いほど私の力になってくれた。しかしこれだけは言える。アメリカの黒人で私に対して「南部の目」のようなあからさまな冷たい視線を投げかけてきた人間は一人だにいない。
 こう書くと私が黒人を崇拝している、という誤解があるかもしれない。確かに私は黒人の文化や音楽に興味があるし、白人よりも黒人の方に精神的親和性を感じているが、だからと言って黒人全員を無条件に崇拝しようなどとは思っていない。黒人の中にも底意地の悪い人はたくさんいるし、いかにも黒人の典型のような知能程度を疑ってしまうような商業主義や固定概念に冒された人間も見てきた。こうした激しい白人対有色人種間の人種差別を普段感じることの少ない(実際には後述するようにかなり日本の人種差別は酷いのだが)日本にいると、こうした抑圧の歴史がステロタイプとして日本人の中に固定してしまっている場合も多い。これは黒人音楽やスポーツを愛する若者に多いのだが、黒人だったらみんな親切、誰でもフレンドリーだと思い込んで行動してしまっている。彼らは自分たちが黒人を理解しよう、親しもうとするあまりに彼らを個人としてではなく、美化された類型のなかに押し込めてしまっていることに気がつかない。
 『アメリカ合州国』あとがきで本田氏が太字で強調したところの「問題の究極的本質は“人種”ではありえない」という言葉はこの問題をよく表していると思う。人種差別は実際に存在する。だが、だからといって何でもかんでも人種差別に結びつけ、差別だ差別だと理解もしようともせずに声高に叫ぶことは、問題を矮小化し、通常の「隣人にすべき親切心」すらねじまげてしまっていることにも結びつく。日本人には一億総普通化志向を持っている、ある意味困った人々が多いが(おかげでそういう人たちに私は散々いじめられてきたが)、「日本人は○△だ」という外からの類型論をどうしても聞きたがる人が多すぎる。そりゃあ、日本人はある程度の文化的な型があるかもしれないが、悪い人もいれば良い人もいる。アメリカの黒人にせよ、白人にせよ、このことはちっとも変わらないのだ。
 ところで、日本人達は私が先述したように、スピーカーで日本人を嘲笑したアメリカ人を黙認するままの寛大な、おめでたい人々なのだろうか。
 とんでもない。本田氏の『アメリカ合州国』の新聞連載から三十余年経って一番悪い方向に変わってしまったのはそれを読んでいる日本人のほうなのだ。本田氏が執筆した1969年ごろ、日本は高度経済成長期の真っ最中とは言え、まだまだ生活水準はアメリカの中流階級に及ぶ所なく、カラーテレビや自動車などの技術製品は高嶺の花だった。だからこそ、日本国内の「アメリカを自分たちの理想の国」と考える風潮に反駁するために本田氏は敢えて抑圧者の面からのアメリカという像を意図的に描き出したのだと考える。
 しかしながら、70年代、80年代にかけて国民平均所得は米国並みに上がった。いや、アメリカに厳然と存在する貧富の絶対的な格差と、日本の中央値にあたる層の厚みなどを考えれば日本人は一般的物質的にアメリカよりも豊かになった、とすら言える。
 果たして、この日本の「国家としての経済成長(=アメリカ的な意味では階級上昇)」によってそこの国民たる日本人はアメリカのそういった姿を反省材料にすることが出来ただろうか。
 更にとんでもない。経済的、そして物質的に豊かになったことによって多くの日本人は自分が金を持っている=発言権があるのだから何をしても良いと傲慢にも考える「アメリカの一部の白人化」してしまったのだ。でなければどうして一部の日本人が東南アジアの貧しい国々で少女を買春しつつ、90年代以降の入国管理法改正によって増えた外国人労働者(多くは東南アジアや中近東の国々からの労働者階級)に対してアパートを貸そうともせず、更に英会話の学校では黒人のネイティブスピーカーの講師としての就職は断られるのだろうか。
 更に悪いことには日本人は差別問題をさほど重要なものと思っていないのではないか、という危惧もある。これは学校教育で現代史がおろそかにされているのと軌を一にしている。高等学校までの歴史で海外、特にアメリカ合州国に移住した日本人がどれだけ差別され、第二次大戦の時には強制収容までされたか、しかも同じ「戦犯」であるのに白人であるイタリア系移民やドイツ系移民で捕らえられた者が少なかったか、全く教えない。つまり、日本人は「自分が差別されうる存在」だとすら思っていないのではないだろうか。そんな日本人が、侵略的な白人の真似をして東南アジアや中近東の国々を見下してやっていることを、当の差別的白人が見たらどう思うだろうか。自分と同じ存在として認める?とんでもない。彼らにしてみれば日本人は黄色い肌をした細い吊り目のorange on toothpickにしか過ぎない。「劣等民族」である日本人が同じアジアの劣等民族である他の国を差別しているのは、目糞鼻糞を嗤う行為に過ぎないとしか考えないであろう。
 残念ながらアメリカに住む日本人の中にも、まるで自分が白人で特権階級であるかのような差別的な振る舞いをする人がいる。そんな人たちと話をするたびに私は毎回こう言う言葉を投げつけたくなる。
「あんた一体何様よ?」
 MTVのスピーカーで嘲笑した若者に誰も何も言わなかった(少なくとも番組の中では日本人の誰も怒っていなかった)のは、その場にいた日本人達が白人である彼のことを「自分達よりも優れた人種だから、自分が降伏したところの国の支配階級に属する人間だから、何も言えない」と卑屈になって何も言えなかったのではないだろうか。これが、浅黒い肌をした、中近東系の若者がやったことだとしたら、一体何人の日本人がそれに対して彼にしたような卑屈な態度を取っただろうか。
 日本人は「豊かな国アメリカ」から自動車をまね、カラーテレビをまね、そして人種差別までまねようとしている。日本製の自動車は確かに経済性、利便性の点でアメリカ車を追い越したが、人種差別は日本が黄色い有色人種の国でアメリカ合州国が白人支配の国であり、サミットに出席する国の過半数が有色人種の国にならない限り(そしてそれは今後百年間はまず有り得ないであろう)、絶対に覆ることは無い、ということがどうして判らないのだろうか。
 ニューヨークにはMoMAという現代美術館がある。美術館の多いニューヨークは日本人観光客も多いが、昨年戦争に関する展示が行われていた時、私は『アメリカ合州国』の姿を見た気がした。それは太平洋戦争のガダルカナル島や硫黄島での戦闘の写真であり、ベトナム戦争でのベトナム人の大量虐殺の写真であった。数々の悲惨な死に様を伝えるその写真の中には、しかし、ひとつとして白人の死体は無かった。ガダルカナル島の砂浜に半分顔をうずめ、開いたままの口には砂が沢山入ったままの生々しい死体は、日本人の若い少年兵だった。側溝に落とされ、親子共々横たわる死体はベトナム人の母子だった。しかし、数百点に渡る展示写真の中には白人の影は微塵も無かった。こうやって自分達は有色人種の死体をモノとして撮影して展示する一方、朝鮮戦争当時、アメリカ人の白人将校は国連従軍記者として特別に許可された日本人写真報道家に「死体の顔は映すな」と命令したのだ。これが、日本に原爆を二個落とした国の本性なのだ。

 MoMAのその展示場には私の他にも何人かの日本人観覧者がいた。彼らはこれらの写真をどう考えるのであろう。もしかしたら、若者だった彼らはガダルカナル島とかミッドウェイとかいう名前すら知らないかもしれない。何せ、日本は現代史を授業時間がないから省略している国なのであるから。私は日本の平和憲法に反対するわけではないが、だからといって全ての戦争に関する記憶を隠蔽してしまう戦後の日本の一般的思潮にはまったく賛成できない。確かに戦争は悪い。しかし悪いものを見なければ、考えようとしなければ、全ての世界を良くできると考えるのはあまりにナイーブに過ぎよう。

 私は他人を侮辱するような真似をした人物に対して間違っている、とはっきり言うことは少しも間違いではないと思う。黒人だろうが、白人だろうが、アメリカ人だろうが、何人だろうが、良い人もいれば悪い人だっている。道徳的に悪いことは悪いのであり、その人を侮辱することは最低のことなのだ。
 多くの日本人は「期待される一般的日本人像」に自ら捕われすぎる余り、「同じだけど違う。違うけど同じ」という最も大切なことを忘れてしまっているのではないだろうか。理想を持つのは構わない。しかし理想を他人に押し付け、型にはめようとするのは大きな間違いだ。
 「南部の目」を持つアメリカ人に対して、私は向こうがこちらを理解しようと努力する気がない限り彼らは有色人種の話など聞こうともしないから、処置なしだと諦めている。しかし、日本人が自らの被差別の歴史すら振り返ろうともせずに経済的に貧しい国に住む人々のことを蔑み、一部の白人の創り出した支配関係を卑小な形で再生産させようとしている愚挙は一日本市民としては絶対に看過できない過ちなのだ。
 私は日本が、日本人が盗みをすると罰されず、外国人が盗みをすると重罪になるような国にだけはなってほしくはない。誰がやろうが、悪いことははっきり悪いと言える社会、一部の白人の愚かな思惑に卑屈になったりしない社会になって欲しいし、また、謙譲の美徳、物事をきちんと理解する人々として、日本人が悪いことははっきり悪いと言える市民であって欲しい。『アメリカ合州国』を読んで、私は久しぶりにそう言った強い怒りと激しい希望を感じた。

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