貧乏留学生の無駄な一日

2/21,2002

 今日は非常に無駄な一日だったかもしれない。というか、常識的な日本人だったらとっくにキレているだろう。時系列的に並べてみる。

11:15AM 「ノースカロライナの風」のみずきさんのお家に遊びに行くために家を車で出る。車を動かすとやたらとタイヤががたがた言ってハンドルを取られたので近くのガソリンスタンドまで行ってちょっと点検しようと思う。

11:25AM 一般道を走行中、ガソリンスタンドの手前500メートルで運転席側の前輪のタイヤがバションという音と共に破裂。仕方がないのでハザードランプを付けて安全に退避できる所まで200メートルばかり無理やり車を走らせる。

11:35AM みずきさんにお約束のキャンセルをした後、なじみの自動車修理屋に携帯から電話をかけるが、「タイヤの交換はやってないんだ。タイヤ屋に電話して」と言われる。しょうがないのでAAA(日本で言うジャフ)の電話番号を聞いて電話をかける。

11:45AM AAAのIDナンバーを忘れたWOG(<アホ・・・)、とにかくレッカーで移動してくれと懇願。向こうはワタシの訛りの強い英語にかなり苦労をしているようだが、こんなん気にしててはこっちでは暮らしていけないので、ひたすら強気にレッカー車を来させるよう要求。

12:20PM 暇なので車内に常備してある全米道路地図を見て時間を潰していたらレッカー車到着。最初はAAAのステーションに行く予定だったのが、故障現場がどのAAAからも遠いためやたらとレッカー移動料金がかかりそうだったため、最寄のタイヤ屋まで運んでくれるように変更。

12:30PM タイヤ屋到着。大抵のこっちのタイヤ屋は修理屋も兼ねてます。

1:45PM  タイヤ屋が一応修理は出来たが、破裂したタイヤ以外にももう1本の方のタイヤがかなりヤバい状態だったようなので2本新しいのに交換することにした。

1:55PM  タイヤ屋、交換したはいいものの、ナットの一つがどうしても見つからないと言う。探してきてくれと言われ、最寄の部品屋さんを紹介してもらう。ってか、そんなナットをせずに車を走らせてもいいものだろうか、という常識はアメリカでは通用しないらしい。

2:10PM  部品屋到着。しかし、お目当てのナットはないと言われる。「すぐ隣の部品屋さんに行ってみたら」と言われ、そこにも行くが、やはりないと言われる。そこの部品屋で「ここだったらあるかもしれない」という部品屋さんの名前と住所を聞く。

2:30PM  部品屋その3到着。しかし、その部品屋は間違いで、あと300メートル先の部品屋が目指す部品屋だよといわれる。

2:35PM  部品屋その4到着。ナットを貰う。しかし、壊れたナットを見せたときにスタッドがついたままだったのでスタッドもいると思っていたWOG、スタッドはどこに行ったら手に入るのかをそこで聞き出す。

2:50PM  途中で1回道を間違う。Uターンして部品屋その5到着。しかしその部品屋、コンピューターがダウンしていて店員に言っても「今はダウンしてるから探そうと思ったら2時間かかる」と言われ、仕方ないので別のスタッドを持ってそうな部品屋を教えてもらう。

3:30PM  また途中で一回道を間違う。部品屋その6でスタッドについて聞いてみたが、無理だと言われ、「車を作ったメーカーの直の修理所に行くしかない」と言われる。しょうがないので最初に修理してもらったタイヤ屋に電話をしてスタッドはいるのか、と尋ねると「いや、ナットだけでいいよ」との返事。てめえ。最初からそう言え、最初から。おかげで2件余計に部品屋をまわったじゃねえか。

4:20PM  部品屋その4で貰ったナットを持ってタイヤ屋に行く。修理完了。修理代〆て$200弱。貧乏学生に何と言う出費を(号泣)。

・・・とまあ、こんな感じで非常に無駄な一日を過ごしてしまった。因みにこのような「たらいまわし」はアメリカでは「ごく当たり前」のこととして受け止めてほしい。日本の場合、お役所なんかで責任や文書の発行のたらいまわしをされることがあるが、アメリカではこんなのはしょっちゅうである。しかもWOGの場合、「言葉が不自由な」外国人である。宇宙語訛りで英語を喋るような奴はあまり相手にしたくない、という輩は結構多いのだ。
 このような「たらいまわし」や、「待つ」ということに関して、日本人はかなりせっかちだと思う。いつぞや、靴爆弾事件があった後だか、海外旅行をしていたくさい20代後半の日本人がアメリカの要領の非常に悪い入管の列にブチ切れてしまって「こんなに待たせるんだったら飛行機を爆破してやる」とか言って逮捕されたとかいうニュースを聞いたことがあったが、WOGに言わせれば、この逮捕された男性、アメリカ人の手際の悪さについて全く知らなかったのではないか、と思われてならない。こっちに住んでいると、手際の悪さは日常茶飯事なので、待つことやたらいまわしにされることは悪い意味で慣れてしまう。日本みたいにきめ細かなサービスが行き届いたところでは、自然、少しの遅れでもイライラしてしまう人が多くなってしまうのかもしれない。
 更に、日本の場合「お客様は神様だ」という精神で接客側も、また依頼する側も応対しているので客はわがまま言いたい放題だし、金を出してるんだからコレぐらい愛想良くしろ、という態度でふんぞり返りも出来る。電車が遅れれば遅延証明を出してもらえるし、何かがストライキをすれば必ず代わりの交通手段が人を運んでくれる。故にちょっと手違いがあった、とか遅れた、と言うだけで怒ってしまうのだろう。
 しかし、この時期、よりにもよってアメリカで、怒りに任せてとは言え「爆破」なんて言葉を口にしたその日本人男性は愚かとしか言いようがない。9月11日以降、アメリカは変わってしまった。WOGが先セメスターで履修していた授業の教授は南部出身のバリバリの保守主義者の共和党支持者であったが、「僕は南部に生まれて60年以上ここで過ごしてきたけど、こんなに星条旗をこの南部で見るのは初めてだ」と皮肉を込めてコメントした。ツインタワーとペンタゴンの破壊は、星条旗と南部連邦旗の今なお続く論争すら「瑣末な事項」に変えてしまったのだ。そして、よりにもよってテロリスト達は「外国訛りの英語を喋る外国人留学生」の肩書きを持つ、アジア出身の「異教徒」だった。(注*もちろん、アメリカにもキリスト教徒以外の宗教を信じる人々はたくさんいるし、信教の自由は保障されてはいるが、依然としてアメリカはキリスト教徒が多くを占め、"GOD"が唯一無二の存在として崇め奉られている国なのだ)故に、「外国人」というものをいままでより一層毛嫌いし、警戒するようになった。そういう人々だって大体、最初は「外国人」だったに違いないのだが、アメリカの、特に支配階級の白人にとってはそういうレトリックは通用しないことになっている。
 話がそれてしまうが、とにかく「外国人」と見える者だけに靴を脱がせ、白人は素通りできてしまうような国に成り下がったアメリカは、今現在は「集団ヒステリー」状態にあると言ってもいい。そんな状況で「爆破」という言葉は禁句そのものだった、という深刻さをその日本人男性はわかってなかったのだと思われる。確かにアメリカはジョークで笑い飛ばすお国柄だが、こと自分の国の存亡に関わることや、自分自身の存在に関わることに関しては、ヒステリックなまでに固執する人々でもある。なぜなら、自発的に大西洋を渡ったにせよ、奴隷船に押し込められて大西洋を渡ってきたにせよ、また、上手い話に舌先三寸で乗せられて太平洋を渡ってきたにせよ、「無意識」の世界から飛び出して来てしまった彼らにとってはアメリカという国の存在は自分の存在意義そのものであるからだ。
 近代が「理性の時代」であるということは一般的によく語られる謂だが、ルネ・デカルトの「われ思う、故にわれあり」という有名な言葉からも明白なように、「理性」はつまり、「意識(consciousness)」なのである。英語で言えば"I think, thus I am." (これはフランス語の"Je pense, donc je suis."を直訳しただけなので本当はどういうか知らないが)。つまり、逆を裏返せば「考えなければその人は存在しない」とも言えるのだ。自分自身の存在について常に意識の下に置かなければいけないのが近代人だとしたら、アメリカ人は何とそれにふさわしい像を提供しているのだろうか。彼らは自分の国について、そして自分自身の存在について、常に意識せねばならない。なぜなら、雑多な民族群が集合して出来た国家はそういった「創造の共同体」を作ることによってしか統合されないのだから。因みに意識(consciousness)は良心(conscience)でもある。自分を強く意識することは「良いこと」でもあるのだろう。
 この辺が多くの日本人には欠落しているところなのだと思う。別に今の日本国憲法がなくても、近代国家として三権分立だとか二院制だとか大統領制だとかを整えてなくても日本は「それまでに勝手に」まとまってしまっていた国であるし、アイヌや沖縄、そして在日朝鮮人の方々を除けば自分の国民性について深く考えるということを「戦後教育」によって隠蔽されてきてしまった人々が殆どだ。日本人には「日本人は○○だ、▽▽だ」と判断されることをマゾヒスティックなまでに好む人が多いが、これはとりもなおさず、「自らの存在を普段は意識化していない」という良い証左ではあるまいか。つまり、彼らは自分の顔がよく見えないから、池に行って水の中に反映した自分の像を頼りに、「自分はこうなんだな」と思っているのだ。
 これがアメリカ人の場合だと、まず彼らは自分の顔は自分でよく判っていると強烈に思い込んでいる(か、思い込まされている)。だから、池に行くような連中の気が知れない。なぜならば彼らにとっては池に行く人は「自分のことをよく判っていないから行く、情けない人々」なのであり、自分たちはそんな池に行かずとも、自分はこれこれの特徴を持った立派な人間なのだ、と誇りに思っているからだ。故に4機の民間機がやったことは彼らにとって、実際のペンタゴンやWTCでの被害以上に精神的ショックを伴うものだったのだ。アメリカ人は今、根拠をなくしてしまった(ground zeroの)自信に根拠を無理やり与えようと、「アメリカ」という虚像にすがるしかない状況に陥っているのだ。実際にはテロ事件の犠牲者になったのはアメリカ人だけでなく、韓国人や日本人、イギリス人やドイツ人といった外国籍を持つ人々もツインタワーの下敷きになって帰らぬ存在となっている。しかし、そんなことは一般のアメリカ人の考慮には余り入っていない。彼らはテロの追悼というよりは、自分たちの持っていた根拠のない自信を取り戻そうとして、"God Bless America"を歌い、南部だろうが北部だろうがどこだろうが星条旗をはためかせ、負しか生み出さない戦争行為を「平和のための戦士の皆さん、頑張ってください」と激励しているのだ。

 話が妙な方向に行ってしまった。つまり、何が言いたいかといえば日本人の皆さんには、アメリカ人の手際の悪さ、対応の悪さに関して決して焦ってせかせかしないように、とアドバイスをしたい、ということだろうか。車が壊れたのはこれで2回目だが、おかげで辛抱強さと待つことと暇を潰すことだけは非常に上手くなってしまった自分が情けないやら何やら。万事につけのんびりモードが身についてしまったWOGだが、こんなんで日本に帰ったら周りの人々はかなりイライラするかもしれないなあ・・・(汗)。
 

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