iモードの功罪

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 お陰様でやっとこさ春学期の授業が終了した。しかしながらWOGはとんでもない重荷を背負い込んでしまった。普通これでこの年度の授業は全て終わって夏学期の授業など受けずにラリラリとどっかに遊びに行くのが常なのであるが(実際WOGは去年は春学期が終わるやいなや、ラーレイに遊びに行ったり、インディアナポリスまで車でのんびりと一人旅をした)、今年は自主研究でなんとCを貰ってしまったのだ。このため、自主的に最終報告書の書き直しをすることにした。コレでCのグレードが撤回されるわけではないが、留学した目的の一つは「アメリカの英語の論文形式に慣れる」ということでもあるから、これは自分にとってはやはり必要であろう、とおもわれてのことだ。因みに修士課程を学位を取得して卒業するには平均Bであることが必須条件なのだが、このCのおかげで平均Bに僅かに足りない状態になってしまったので来学期はマトモに授業を受けないと学位も危ない。だからもっとマジメに勉強しろ、と言われそうだが、まったくその通りである。この5-6月は論文のスタイルに慣れねば、と思っている所である。
 ワタシがとてつもなく平均的な成績を取ってしまった理由として教授は「英語の論文のスタイルを理解していない」とアドバイスを付け加えた。それもその筈、ワタシは英語の論文の書き方などついぞ教わったこともないし、また日本にいるときも英語の論文は参考資料として参照するものであって、自分が書くことになろうとは思ってもいなかったからである。ICUなどだと英語論文のスタイルは徹底的に叩き込まれるのであろうが、運悪いことにワタシは国立大学の出である。日本語の論文の書き方すら、マトモに教えて貰ったことがない。自分で勝手に修得するしかないのだ。
 ついでに言えば、ワタシの英文の論法もかなりおかしいものであるらしい。これもワタシにとってはかなりのショックだった。というのも、WOGは昔から文章を書くことに関してはそんなに苦労したことがないからだ。自分の中では骨組みもへったくれもないような文章をちょっとばかり物しても、大抵は「いい文章ですね」と褒められて育ってきただけに、自分の文章のどこが間違っているのかが判らない。これはひとえに英語の人々の思考法と日本語の人々の思考法の差から来ているのかも知れない。英語の場合、結論を先出しにしてしまわなければ読む方、聴く方は全く共感しないが、日本語の場合はなるべく後出しにして、いかに効果的に結論を見せるか、というところに主眼が置かれているように思われる。アメリカに住んでいるとはいえ、こうやってインターネットで毎日日本語に接しているWOGにとっては日本語の論法がどうしても考えるとき先に出てきてしまうのだろう。それが読む側の教授やチューターにとっては不可解なのかも知れない。
 おおよそある一つの言語で「名文」といわれる文を書く作家なり哲学者なりの文というのはその言語を学ぶ外国人にとっては非常に難解な文であることが多いように思う。文法は無視、語順の倒置はお手の物、といったものの前には外国人留学生は四苦八苦するしかないのだ。WOGは高校生の時、英語の授業でバートランド・ラッセルの平和論か何かを読まされたことがあるが、今になると彼の文章が何を言っていたか、というよりは毎回彼の文章が出てくる度に憂鬱だったという記憶が真っ先に蘇ってくるのだ。

 閑話休題(閑話が長すぎだっちゅうねん)。とりあえず、今のところは授業のことは一休止と言った感じで日本語の本を読んだりネットサーフィンしたりして過ごしている。その中で気付いたことを今日は書くことにしよう。
 最近新聞のウェブサイトを覗いていると、日本のインターネット事情の奇怪さを示す記事が非常に多い。ここアメリカではインターネットの発祥地(というか最初の発達地)ということもあって、一般市民がインターネットをするのは非常に楽だ。勿論、パソコンなどはやはり何百ドルもする代物であるから初期投資は非常にコストを伴うのだが、買ってしまえばこちらのもの、月約2000円のインターネットプロバイダとの契約料金を払うだけでインターネットは普通の電話線からしたい放題なのだ。
 「電話料金は?」そう問いかける向きも少なくはないだろう。日本ではインターネットにつなぐときには電話料金も伴うからなのである。アメリカでは地方の電話局に月額の基本料金約2500円を払えば自分の住む地域の市内局番の電話番号には何回かけてもタダなのだ。ズバリ、基本料金のみ。大手のプロバイダ会社は大体の市外局番に通じる電話番号を1つか2つは持っているために、大抵の市民にとってインターネットは言ってみれば「月2000円で無限に楽しめる代物」なのである。
 これを翻って、日本の場合はどうだろう。最近は月額2000円なり2500円なりの固定料金制で無限に接続が可能、というプロバイダ会社も多くなったが、未だに電話料金の問題は残っている。テレホーダイという設定も深夜と早朝のみであり、ASDL(だったか、詳しい名称失念)もごく最近に出てきたものであり、しかもそれを設置するための工事料金やルーターなどの接続用品のレンタル料などを合わせるととてもとても、アメリカのように月額約2500円の基本料金でインターネットが賄える、という訳にはいかない。
 これというのも、日本のインターネット、もっと言えば電話線は未だにNTTの専横下にあるからである。NTTは事業を東西、それからあと一つの会社に分割をしたが、それでも強力に日本国内の電話線を握っていることは変わりない。アメリカの場合、やはりAT&Tの独占市場のような状態であったが、それが10社かそれぐらいに細分化された。"Bell South"とか"Bell Atlantic"とかいう地方規模の小会社化され、インターネットの振興のために、これらの会社の事業が制限されたことによってインターネットの道が大きく開けたのだった。日本は、と言えば、未だにNTTが電電公社のような顔をして住宅での電話線使用の権利を7万円超というとてつもない金額で国民に売りつけ、電話料金を逐一請求して回っている。彼らの頭の中には「市内通話は全て定額制」とか、「誰にでも簡単に開設できる電話」といった観念は存在していないらしい。
 これが「日本とアメリカの差」というのだけであれば話はそれで終わってしまうであろうが、先進各国は次々とアメリカ型の方式を使い、インターネットの環境をどんどん整備していっていることを考えると日本の現在の事態は余りにも深刻だと言わざるを得ない。最近発表された国別のインターネット接続時間とパソコン使用時間の調査結果でも、日本が接続時間においてはかなり少ない部類にランクされているのはこの高い接続費用が一因していると見てまず間違いない。因みにこの調査で最も閲覧時間が長い部類に属する国の中には韓国も入っていた。こういうときに「おとなり意識」を持ち出すのも大人げないかも知れないが、それでもやはり韓国に出来てどうして日本に出来ないのか、とワタシは言いたい。少し前にもX JAPANのYOSHIKIが日本政府に宛ててインターネット環境の整備の陳情書を出したことが話題になったが、海外でレコーディングをすることが多い彼は海外の整備されたネット環境に対して日本の余りの無策さを問題視しての行動だったのだろう。
 さて、こういう高い接続費用と、高いパソコン代を抱えた日本のインターネット利用者は出る行動は二つであろう。一つはこまめに切ってはつなぎ、切ってはつなぎして電話料金を節約する方法である。これならば必要以上に電話料金は取られない。だが、その代わり、ある一定のサイトを小出しにして見てしまうために「いつも行っているところ」しかその内見なくなってしまう。これでは「新たな分野の開拓」というネットサーフィンの醍醐味の一つが味わえないではないか。因みにワタシの知り合いの知り合いでネットのヘヴィユーザー(日本在住)がいたが、電話料金接続のために会社から帰ったらすぐ寝て、それからテレホーダイが始まる11時と共に起き出してネットをし始める、という人がいた。日本の今までに述べたような事情を考えると彼のことを「変わった人」として片づけることが、果たして可能だろうか。
 もう一つはインターネットをやらないこと。パソコンを買うだけのまとまった資金が出来ない人にとってはこれは最善の方法だろう。そういう人達に受け入れられたのがiモードという代物だったのだ。「携帯電話で気軽にインターネット」。このキャッチフレーズは高額なインターネットの接続料金にあえぐ日本人を一気に飛びつかせた。少し前にアメリカと日本のケイタイ事情の違いについて書いたことがあったが、この二つの地域の携帯電話の性格の違いはこうしたインターネット事情の違いも大きく関わっているのだ。一概に「iモードだから」といって何処の国でも、どんな事情下でも成功するとはいえない。iモードであればネットへの接続料金は基本料金の中に含まれるし、超過分は後で請求が来るが、それは「携帯電話接続料金として」であって、一般のPC保有者が払っているようなプロバイダ契約料ではない。おまけにiモードだと電子メイルも受送信することが出来る。普通の人々にとっては、インターネットやらPCが果たす役割を携帯一本で代用出来てしまえるのだ。
 このようなiモードにも欠点は多々ある。何よりも、ネットの画面が携帯の画面内でしか展開できないがために必然的に軽薄短小型の情報発信を余儀なくされてしまうということが最も大きな問題であろう。iモードでは最新情報をフラッシュニュースのように受信することは出来るが、そのニュースについての深い考察は一切出来ない。文章が長くなってしまうからだ。しかも、iモードではiモード専用のサイトにしか行くことが出来ない。この現象はワタシのようなヘヴィユーザーな長文書きにとっては致命的で、取りようによっては「これはイジメかい?」と問いたくもなってしまう。
 このiモードが若い女性を中心に発展を遂げた、というのはなかなか象徴的なことであろう。ワタシの周りの若い女性(日本在住)も、パソコンを持たない人が沢山いる。彼女たちはケイタイでメイルを出し合い、iモードで最新情報を確認するだけでネットは十分だと思っているのだ。彼女たちの中には「長時間のネットサーフィン」という言葉は存在しない。この現象をヘヴィネットユーザーの人々(ワタシも含む)が「自ら情報探索を絶っている」と断罪することはたやすい。しかし、彼女たちは彼女たちの理由があるからこそ、敢えてiモードだけで暮らしているのではあるまいか。
 少し前、アメリカの調査で小学4年生の学力についての報告がなされていた。それによれば小学4年生の時点では女子の学力の方が男子を上回っているとの結果がでたそうだ。しかもそれは「例年のように」なのである。ワタシはこれを見て少し驚いた。なぜならばアメリカでは日本のように「男らしく」「女らしく」を必要以上に強制されない子育てがなされている印象があったからだ。日本でも女の子は小学生の時分は男の子より学力が上回っていることは殆ど常識のように思われているが、それがアメリカでも一緒だった、とすると、何となく「性による特性」というものを考えてみたくなってしまう。即ち、女というものは現実生活に即した部分で優れた能力を発揮する、ということを。
 言っておくがワタシはセクシストではないし、どちらかといえばフェミニストに近い。女性に不利、とか男性に不利、とかどちらか一方に偏るような発言をする心づもりもない。
 大体、小学校の勉強というものには足し算や引き算、ものの名前を覚えるとか、ものの言い方を覚える、などと言ったとりあえず生きていくために最低限必要な現実生活に即したカリキュラムが組み込まれていることが多い。こういうところでは女の方が強いのではないだろうか。男というのはどちらかと言えば浮世離れしているところで強い。小学校の5年生以降になってはじめてカリキュラムの中に抽象的思考が組み込まれるようになるのだが、男の子の学力が女の子を上回るようになるのは大体この時期だ。(とはいえ、WOGの育った地方は非常に特殊で、公立学校なのに一クラス男16人女26人という女優位の小学校で、当然女の子の方が小学5年生を過ぎても優秀であり続け、また、中学校に入っても、その中学校始まって以来のオール5の成績を獲得した知人は女の子だった。これ故WOGの中には未だに男に対する妙な偏見が残ってしまっている)
 これはiモードとPCユーザーの差にもあてはまらないだろうか。つまり、女性達にとっては「自分の生活に必要なもの」が関心の主たるものであるからiモードで充分なのではないか。それ以上の、長時間にわたるネットサーフィンなどは「無駄なもの、すぐ飽きるもの」としか思っていないのではないだろうか。彼女たちにとってはiモードで最新ニュースをちらっと、そして好きなテレビドラマの放送時間と芸能情報、そしてヒット曲の最新ランキングを調べ、親しい友人や遠方にいる友人にメイルを出して安否を気遣うことが出来ればそれで充分なのだろう。社会の一部として忙しく立ち働く彼女たちにとってはほんのちょっとの時間で情報が引き出せることが何よりも重要なのである。
 対するPCユーザーはどうかというと、PCでは携帯電話と比べて出来ることが格段に多い為についつい長時間PCの前で過ごすことが多くなる。PC画面に電話線を通じて表示される情報は多種多様に渡っており、とても短時間で見切れるものでもないだろう。また、PCはiモードでは出来ないような複雑な議論を展開することも可能だ。この世界にはまってしまえば前述したような昼夜が半分逆転したような生活をしている男性だってでてくるのは不思議ではない。
 iモードは、こういう日本の働く若い女性の性向と、日本のインターネットの劣悪な環境が二重効果となって大発展を遂げたものなのではないだろうか。それの証拠として、他の国では日本よりもインターネット環境が整備されているためにiモードは全く存在しないか、あったとしてもマイナーな存在なのである。iモードの考案者の女性をビジネスシーンの最先端として担ぎ出すことは構わないが、なぜそのような形式が一世を風靡したか、という構造的な理由ももっと考えた方がよいのでは、と切に思うこの頃である。

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