Until the End of the Time

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 もういい加減に期末小論文の追い込みだというのに、どうにも眠い。おかげで読むべき本が全然読み進んでいない。いい加減何とかしないといけないのだが、どうにも気力が出ない。しかしそうだるいだるい言ってサボってると本格的に国外退去になってしまうのでそろそろ本腰入れてやらにゃー。というか、疲れた疲れたで寝てられるだけ恵まれてるとも言うか。

 さて、そんな前置きはおいといて、ついに出た2pacのアルバム"Until the End of the Time"。WOGはどーしても欲しくてたまらなくてクレジットカードで買ってしまった。他のCDは我慢できるのだが、2pacの発掘モノと聞くとどうしても我慢が出来ない。今は買ったアルバムをエンドレスにしてかけているのだが、時々真面目に聞き入ってしまうとついつい2pac独特の伸びのある甘い声に聞き惚れてしまってなかなか先に進まない。前にも書いたことがあるが、WOGは2pacの何に惚れたかと言えば、何よりもあの声だから、2pacのラップを聞いているとついついトリップしてしまいそうになる。何度も言うようだが、彼ほど、ラップをするために生まれて、そして死んでいった人間はいないと思う。
 聞くところによるとこのアルバム、リリースされて最初の週で何といきなりアルバム部門のヒットチャートで1位になってしまったそうだ。さもありなん、アルバムとしての出来もなかなか良いし、今までお蔵入りにされていた幻の作品群の一般への披露、というストーリー性も手伝っているのだろう。音質の効果やライムから(主観的に)考えるに時期的にはall eyes on meからMakaveliの時代の、outlawzとつるんでいた頃の作品のような気がする。この時代の2pacはall eyes on meのような大衆に迎合したギャングスタ路線を敢えて売りにしてマス化をはかる一方、刑務所留置時代に感銘を受けたというマキャベリの名前を借り、outlawzを引き連れ彼独自の思想をラップに、そして実社会に反映させようとしていた。彼のラップに常につきまとう暗い翳は相変わらずこのアルバムにも如実に反映されている。
 しかしいくら素晴らしいアーティストだからといって死後にヒットチャート1位になってしまう、というのはとりもなおさず現在のラップの世界が2pac以上のタレントを出せない、と言うことをも示してはいないだろうか。確かにJay-ZやDMXなどのビッグネームは新曲を出せば売れる、という状態ではあるが、彼らの出せるカラーには自ずと限界がある。今のところ彼らは確かに大スターではあるが、手法や売り方の点では頭打ち状態のような気がしてならない。
 勿論ラッパーの中には旧来のラップの手法を踏襲し、既存社会に対する怒りを詩に表し、それをリズムに合わせてラップにしたMCも少なくはないのだが、WOGが端から見てる分には、プロモートの側がそういうラップを売ろうとしていないのだ。それよりも出せば売れるスター、きわどい性的な放送禁止用語を連発して形だけ性欲を煽ろうとしているスターにやらせとけば良い、というようなマーケット第一の考え方に偏りすぎているような気がする。
 この頭打ちの現象は買う側にも責任は求められるべきだろう。ヒップホップカルチャーのファンの方から貰った情報によれば、アメリカのヒップホップファンは今やまさにそのプロモートが売るビッグネームのCDしか買わず、リスナーとして新しいMCや新しいDJを模索しようとしていないらしい。ヒップホップの担い手であるブラックの若年層でそれは顕著らしい。
 これではまさに「ラップのブランド化」ではないか。もともとラップ、というかMCだのDJだのグラフィティアートだのといったヒップホップ文化はカウンターカルチャーとして現れたのだが、それがマスマーケットに取り込まれた結果、ブランドの一種に変貌してしまったのだ。
 そういう意味では2pacというのは、究極のブランドであろう。名前さえ出せば売れる。しかも本人は死んでしまっているから、生きている場合のように「ブランド」がいきなり方向転換する心配もありはしない。プロモート側にとってはこれほど好都合な金蔓はないだろう(ああ、そういえば今回のアルバムのプロデューサーはシューグ・ナイトだった・・・)。しかも、話に寄れば2pacが未発表のまま遺した作品の数たるや、数百とも言われているのだ。その膨大な音源の中から厳選して今回のようにアルバムを出しても、少なくともあと5枚は製作できるだろう。
 さて、お察しの通りWOGはこういったブランド化の一端を担っている存在であるが、別に好きこのんで大衆に迎合しているわけではない。今までもそれなりに多くのMCを聞いたつもりだが、2pac以上の声の持ち主にどうしても出会えないのだ。WOGにとってはMCは「音」である以上声が第一基準なので、声がまず彼と同等であるか、それ以上でないとたぶんCDまで買おうという気にはならず、ラジオで聞き流す程度になってしまう(しかし、最近は同じ曲ばかり流しすぎだ、ラップチャンネル・・・)。ある意味、WOGが今のラップを聞いているのはそういった「2pacからの脱却」を狙っているのかも知れない。今のところ全く脱却出来てないのが実情であるが。

 そういえば思い出したが、こちらでのMC隆盛の一端を担っているのが詩の文化であろう。こちらの人は詩が好きな人の割合が日本よりも多いような気がする。どんな職業であっても、趣味は詩作、という人がまれではない。日本の場合だと詩作はどうしてもマイナーなカルチャー分野になってしまっており「趣味は詩を書くこと」などと、特に男が人前で言おうものなら妙な目で見られてしまう。こちらでは堂々と詩作を趣味に挙げる男性が少なくないし、小さいときから自分の思ったことを一つ一つの言葉に託して表現することを奨励する。
 勿論日本には詩(ここでは散文詩)ではなく、俳句や短歌といった日本古来の伝統韻文詩が存在するから、これを趣味とする日本の男性は、特に年輩に多い。
 だが、俳句や短歌といったものは散文詩に比べて制約が多すぎるし、まだまだ文語調のものが幅を利かせている。若い人達が自分の新鮮な心情をそのまま表そうと思っても、韻文詩では歴史があるだけにかえって何か古くさく、自分のものでなく感じられるのではないだろうか。
 彼らには語るべきものがないわけでは決してない。ただ、その語るべき場が失われているに過ぎない。例えば、ここのように、Poetry Readingのような、自分にしか作れない、自分にしか語れない詩を歌う場が与えられたら、今の少年少女達の逼塞した心理は少しは解放されるのではないだろうか。
 「マンハッタン少年日記」を書いた詩人ジム・キャロルはドラッグに溺れた生活を経験しながらもずっと続けていた詩作によってどんぞこから這いあがり、今ではPoetry Readingを一種のヒーリングのようにして精神的に傷ついた人々と詩を通じて交流しているし、また、2pac自身も少年時代に詩を書くことを芸術学校で教わり、詩を通じて自らの孤独を昇華させていった。
 思うに、日本にはこういう場が余りに少なすぎるような気がする。こちらでは詩が好きな人が地区の図書館の集会室などに集まって、それぞれの詩を発表し、お互いの思いを語りかける機会が数多く設けられている。WOGは昨年詩の授業を履修したのだが、アカデミズム的視点から詩の技巧に注意を払うのは勿論のこと、その詩が実際に音読されたとき、どのような効果を与えるか、ということにも重点が置かれていた。これだけ詩がポピュラリティを獲得している為に、博士号を持った大学教授の詩人も少なくない。彼らは英語学科に所属しているのだが、日本に置き換えて、一体どれだけの詩人が大学の国文学科で詩を、その音の豊かな響きと共に教えているだろうか、と考えるとその環境と扱いの差が判るだろう。
 インターネットのおかげで最近は日本でも精神的に閉塞状況に置かれた若い人々の自己表現の場は広がりつつあるが、これではまだ不十分のように思える。実際に詩を作ったその人が、その肉声で、その苦しみ、悲しみ、そして喜びを目の前にいる、自分と同じ目線の聴衆に向かって語りかける。そして、自らの経験と共に参加した全ての人々の経験も吸収していく。こうした場がどんどん作られなければ、若い少年少女達の悲痛な心の叫びは悲劇にしかならない。
 サカキバラ少年が、幼児を次々と残虐に殺害・殺傷する前に遺した手記や詩に芸術的価値を認め、擁護する詩人もいる。しかし結果として彼は自らの心のうやむやを発表する場を見つけることがないまま、残虐な行為を実行してしまった。人殺しをしてしまった時点で既に彼に関してはもう救う道が限られてしまった形になってしまった。いくら芸術的価値があるからと言って、犯罪は帳消しには出来ない。しかしながら、もしあの時、こうした彼の詩を、悲痛な心の叫びと受け止める人がいて、詩や散文を通じて交流できる機会が与えられていたならば、もしかしたら彼は人殺しをしなかったかもしれない。
 今の少年少女達は精神的にあまりに縛られ閉じこめられすぎている。もっと自己を表現できる機会が身近にあれば、と願わすにはいられない。
 勿論、Poetry Readingの習慣があるアメリカですら、高校での生徒の銃の乱射や少年少女の暴力的な行動などの問題はひっきりなしに起こってしまってはいるが・・・。

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