携帯電話

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 この日記のコーナー、昔は「週記」だったものが、今年に入ってからは確実に「月記」になっているような気がする。今年に入ってからやたらと忙しい日々が続いて、こっちのページには構ってられる時間が全くなかったからだ。もう一つのページですら、1週間に1度更新するのがやっとの状態だった。

 ところで今さっき銀行に行って60ドル引き落としてきたら残高がなんと56ドルだった。マジかよ…(^^;;;;)この週末はしょうがないのでペーパー用の本を読み、肩こり対策として学校のプールにでも行くしか時間を過ごせない。それより先に月曜日には銀行に行って臨時に日本のクレジットカードからこっちの銀行の当座預金にちょこっとだけ移しておかないと、銀行やら買い物先のスーパーやらから残高不足で追加料金を取られてしまうので要注意なのだ。
 悪いことは重なるもので、今やたらと円安で仕送りを頼もうにも目減りしてしまうのが目に見えている。親には「120円台切ったら入れてくれ」と頼んでしまったし、急げとも言えない。それにしても、56ドルはあまりに辛すぎる…(涙)

 閑話休題。最近携帯電話を買ってみて思うのは、日本の携帯電話とアメリカの携帯電話の差だ。同じ携帯電話でも国と文化が違うとここまで違うのか、と思わされることが多々ある。

 まず、誰からも明らかに見える、形からいってみよう。アメリカのケイタイはハッキリ言って、デカいし重い。同じような形から入ってどんどんと軽薄短小化を進めていった日本からみたらそれこそ「5年前の携帯電話」みたいに感じられるだろう。
 これはアメリカ人の体格と日本人の体格からしたら仕方がないことかも知れない。日本人は華奢で細いからある程度小さくなってもちゃんとダイヤルできるが、こっちの人はとにかくデカい。縦にもデカイが横にも素晴らしくデカイ。ミルクが3.6リットル単位で売られている国だから、全てのパーツが日本の4割増位になっていると考えても全くおかしくはない。
 昔プロレスラーのアンドレ・ザ・ジャイアントがダイヤル式電話しか使えなかったという話を聞いたことがあるが、その理由というのが、「プッシュフォンだと指が大きすぎて隣のボタンまで押してしまうから」といういかにも彼ならではのエピソードだった。
 アメリカ人に関してもそれと同じことが言えるような気がする。つまり、デカイ人が多いこの国のこと、どんどん日本のように軽薄短小にしていくと、指の大きさに比べてボタンが小さすぎて横のボタンまで一緒に押してしまって、使い者にならなくなるのではないだろうか。だからアメリカのケイタイは「小さくしない」のではなくて、「小さくできない」のではないだろうか。

 その2。機能が違う。勿論ケイタイの種類によっても同じ国でも高いものと安いものではまったく機能が違うだろうが、ここでは、本来の通話機能以外のアクセサリー機能のことを指す。
 まずは着メロ。日本の場合、「ケイタイ着メロ」が本のベストセラーになってしまったり、インターネットのホームページから着メロがダウンロードできたり、とにかく「着メロ」に関するレパートリーがそれこそ億千万とある。大体着メロ以外にもケイタイにメイルが来たときのメロディとか、その他いろいろなシチュエーションに関するメロディの種類からして沢山ある。日本でケイタイを持っている人々は、それぞれのシチュエーションに関する着信メロディを限りなくあるメロディから好きなように選ぶことができるのだ。
 WOGはこの3月、シカゴに行って日本から卒業旅行に来た学生さんに会う機会があったが、日本から持ってきた携帯電話を見せて貰ってまずその小ささと薄さに驚かされたし、更に、着メロの豊富さにビックリした。着メロの中にはなんと「3分間クッキングのテーマ」とか「サザエさんの番組中のBGM」とか、名古屋文化圏出身者には懐かしい「ビタミンちくわ」のテーマまであって、いろいろなメロディを聴かせて貰って爆笑してしまった。
 更に、ルールさえ把握すれば着メロを自分で作ることもできるのだ。自分でつくった特定機種用の着メロをホームページで公開しているホームページを見つけて、「京浜東北線品川駅の発車時のテーマ」とか「東北新幹線の出発および到着のテーマ」などを聞いたときには死ぬほど笑ってしまった。
 振り返ってみて、アメリカにはここまで豊富な着メロはないし、ましてや自分で作ることなど、どうやら一般的アメリカ人の考慮の内には全く入ってこないらしい。機種によって高いものだとそれなりに20種類ぐらいはついているようだが(WOGのは7種類)、自分で作るとか、インターネットで落とすとか、そんな話は寡聞にして聞いたことがない。

 次に、「待ち受け画面」。非常に恥ずかしい話であるが、WOGはシカゴで日本の「今時のケイタイ」に出会うまで、「待ち受け画面」というものがどういうものか、全く知らなかった。まぁ、言ってみればPCでいうスクリーンセイバーのようなものなのであるが、コレも日本はまた数数え切れない程の待ち受け画面のレパートリーがある。インターネットのケイタイiモードのサイトなどに行くとこの「待ち受け画面」も数限りなくネットに落とすことができる。日本のケイタイは電波受信の強さを表すのが3本、アメリカのだと4本あるが、「待ち受け画面」には、それを茶化した、電波が15本ぐらい立ってる「オレは強いぜ!どこでも受信するぜ!」画面とかもあって、実際に見せて貰ってまた爆笑してしまった。
 この「待ち受け画面」、という発想はアメリカ人の考えの中にはないらしく、通常ケイタイを使ってないとき(でも電源は入ってて受信が可能なとき)の画面は質素に(無愛想に、ともいう)電波の本数、日付、そして時間とバッテリーの状態などが並べられているだけだ。いわんや「インターネットで待ち受け画面のダウンロード」をや。

 その3。使い方。日本のケイタイ利用者というのは、ケイタイで直接会話をするのと同じぐらい、ケイタイで電子メイルをやりとりしているし、ケイタイ専用のiモードでインターネットでの情報取得や掲示板での会話を楽しんでいる。昨年の夏、WOGが一時的に日本に帰国した際、電車の中でケイタイとにらめっこしてめまぐるしく親指を動かす若い男女会社員やら学生やらの姿を何度見かけたことか。その「親指ケイタイ族」の多さに1年いないとここまで事情が変わるのか、とびっくりしてしまった程だ。アメリカでもこの「親指ケイタイ族」のことは伝わっているらしく、「日本の若い女性の、ケイタイのボタンをめまぐるしく指で押していくその技は、芸術としか思えない」と、あるジャーナリストは書き立てた。
 翻って、アメリカは、と言えば、道を歩いていたり、ショッピングモールを歩いていたすると、どこでもかしこでも老若男女ケータイを耳に当てて話している人にかなりの確率ですれ違う(流石に地下鉄の中などは迷惑になると思って消している人も多いが)。(ホームレスなどを除き)外を歩いている人がいたら、大抵ケイタイで何かしら喋っている、と考えてもおかしくはない。彼らの行動はまるで「だって携帯電話なんだから話すためのものでしょ?」と力一杯主張しているかのようだ。勿論、アメリカの携帯にもちゃんとメイル機能はあるし、それで電子メイルをやりとりしている人もいるだろうが、日本のようにみんな下を向いて黙々と親指作業を続ける、などという光景はまずアメリカでは見られない。

 確かに、携帯電話は話すためのものであって、それ以上の機能は何のために必要なのか、と言われれば、まぁ、あんまり実用的には必要ではないような、とついつい答えたくもある。
 それ以前に携帯電話を持っているアメリカ人の全員が全員、まともに英語をスペルできるか、と言えば、それも怪しい。日本人からしてみれば「自分の国の言葉を正しく綴れないなんて!」という向きも多かろうが、アメリカという国は、聖書の言葉をもじって言えば「最初にベシャリありき」なのだ。とりあえず喋らないと話が進まないし、喋れないと仲間にすら入れて貰えない。英語があまり喋れなくてついつい沈黙してしまうWOGのようなシャイな日本人よりも、訛や間違いだらけでもとにかく喋りまくって相手と何とか話をしようとするヒスパニック系の人の方が、アメリカ人の側からすれば「心が打ち解けやすい、良い人々」なのだ。
 だからといってWOGは「だから日本人は云々」と知ったような蘊蓄を垂れるつもりは毛頭ない。なぜならば、日本人はまず成長過程で親から言われる言葉で一番多いのが「静かにしなさい」なのだから。小学校の授業でも、中学校の全校集会でも、自分の意見を声高に叫ぶよりは静かにして、相手の話を聞くことから教えられてきた(教化されてきた)人間にいきなりベシャリの文化に慣れろ、と言われても畢竟無理な話だ。
 その代わり、日本人は教化されてきた沈黙の中で違ったタイプの「遊び」を発達させてきたのだ。
 声高に叫ぶことは「人前」や「世間」ではできない。でも、何とかして自分なりの自己主張はしたいし、他人と交流も結びたい。こういった日本人の願望の一端が携帯電話に現れているような気がしてならない。初対面で緊張している間柄でもちょっと携帯の面白い着メロが流れると「その着メロ、面白いね」と話を切り出すことができるし、仕事の合間のちょっと休みの時間に、親しい友人に「元気?」と消息を尋ねるメイルを周りの迷惑にならずそっと出すこともできる。(他人の迷惑になるかならないか、は日本人にとって最大の尺度だとWOGは思う)
 「遊び」というと、どうしても積極的な身体活動を思い浮かべてしまうことが多いが、日本語の「遊び」という言葉の意味の中には「遊び紙」とか「遊び駒」といった、決して積極的とは言えない要素もきちんと含んでいる。これらは言ってみれば「消極の美」、「無駄の効用」であり、これがあるからこそ、生活の中にひと味違った趣を実感することができるのだ。
 日本のケイタイの着メロや待ち受け画面などの(アメリカ人にしてみれば)無駄なまでの数のレパートリーやIモードと言った機能や使用方法は、日本人が「遊び」として愛する「無駄の効用」故の現象なのかもしれない。

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