日本人と外国語

10/13

  昨日久しぶりに実家に電話をかけたら、丁度両親は海外旅行から戻ってきたところだった。新婚旅行ですら九州日向フェニックスリゾートで済ませ、その後も銀婚式を過ぎても一向に海外旅行に行かなかった両親だが、このところやたらと海外旅行づいているようで、2年前に初海外旅行をした後、今回のイタリア行き。まぁ、はっきり言って今更外国に何の基盤も無しに行っても絶対に馴染めないであろうジジババ様方なのでパック旅行で行ったのだそうだが、同じツアーに参加した人から「アンタ達は個人旅行で行ったら」と言われる位に「典型的ツアー客」像からはかけ離れた行動をしたらしい。
 因みにウチの両親は彼らだけでは行きたくないらしく、叔母夫婦と4人揃わないと旅行が確定しない。しかし、確定したらこっちのモノで、行く先々で英単語を羅列し、日本語(しかも岐阜弁)を使いまくり、どこへ行こうがゴーイングマイウェイ。前回の旅行で行ったパリの三越では全て岐阜弁で買い物をしたんだそうな(苦笑)。今度はカナダに行きたいとか言っているこの4人組、どうやらWOGが添乗員をすることになりそうである。
 母から聞いたのだが、イタリアはもう英語が全然通じる世界らしい。で、両親達が泊まった先のホテルやレストランは日本人慣れしているらしく(おそらく旅行会社がそういうホテルを選んで提携しているのであろうが)、「ご飯、小盛り?てんこ盛り?」とかウェイターが日本語で聞いてきたそうな。イタリアよ、コレでいいのか・・・(^-^;)
 今や世界各国に日本人観光客が溢れるこの時勢、シルクロードの中継地なんて所に行っても日本人観光客目当てのハイヤーのお兄さんは日本語が話せるとか。日本人がどこまで足を伸ばしているかがよく判るというものだ。

 ところでこの前の夏に日本に一時帰国したときに近所のおばちゃんからこんなことを言われた。
「もうWOGちゃん、アメリカに住んどるんやから、英語ペラペラでしょ〜??」
 冗談じゃない。自慢じゃないが未だにWOGは英語を喋るのと聞き取るのが非常に苦手で聞き取って理解することすら満足に出来ず、議論の輪にも加われないような毎日を送っているのだ。日常生活だって同じで、未だに店員のおねえさんやおばちゃんが言っていることがよく判らないことが多い。というより、1年やそこらで英語が全部判るようになると思ってしまう方がむしろ間違いなのではないだろうか。もし英語を完璧に理解しようと思うのであればやはり5年以上は英語圏で生活しなければいけないような気がする。
 プラス、日本はどちらかというと沈黙する傾向があるから、テレビショーやらSitcomといった、「ベシャリの文化」に馴染みにくい、というのがある。この辺はリーディングとグラマーを重視した日本の英語教育の弊害がモロに現れているのだが、Spoken Englishが全くダメなWOGとしては、たぶんアメリカにいることの楽しみを半分ぐらいしか味わえてないような、勿体ない気がしてならない。
 しかし、話したいのはWOGの英語の出来て無さではなく、「英語がペラペラ」になることが一つの特権であるように考えられている日本の風土だ。
 最近感じるのは「日本語だけで事がすませられる社会」というのはある意味ものすごくおめでたいことなのではないか、ということだ。日本に済む日本人は日常生活が日本語だけで済んで、そして「カッコヨサ」に惹かれて英会話学校などに通ったりするが、こちらに来て、いろいろな人々の話を聞いていると、バイリンガルというのは決して日本国内の日本人の間でのような特権的なステイタスはない。「趣味でやってる」というよりは「コレしかもう他に手段がない」という、本当にせっぱ詰まった状況の移民の人々が沢山いる。彼らは「英語が出来なきゃ生活できない」から英語を必死で覚えざるを得ない。
 アメリカだけでなく、東欧のユーゴの辺りの人達やアフリカの人達は好きでバイリンガル、トライリンガルをやっている訳ではなく、生活の必要上彼らは沢山の言語を操らなければいけないのだ。
 日本人がいつまで経っても英語が上手くならないというのは、こうしたせっぱ詰まった感情が欠落しているから、というような気がする。しかし、そうしたせっぱ詰まった感情がない、というのはそれ自体はゆがんだ形にせよ「平和」を意味するものなのではないのか。
 勿論、そんな「平和」は見せかけだけで、感覚的に麻痺してしまっているものだが。生活の必要上日本語を使わなければいけないけれども、家の中ではハングルを操る在日の人達(最近はそういう傾向も少なくなり、日本語オンリーの家族もかなりの割合を占めている)だってバイリンガルなんだよ、なんて言ったら何人の人が納得するだろうか。
 日本人は普段日本人である、ということには気付きにくい。だから少しでもその姿を把握しようとして「日本人はこうこうだ」と外国人などが論じた本がやたらと売れる。この民族だの人種だのが世界中でせめぎ合い争い合っている世の中で「自分が所属する民族とは何か」が本を読むことによってしか自覚できないというのは、よく考えて見れば非常に珍しいことなのではないか。民族紛争が起こっている地域の人々は否が応でも自分の民族を自覚せざるを得ないのだ。
 その代わり、日本人というのは同類の日本人の中に関しては「同一性」を絶対の価値として押しつける。コレはWOGが学校で「変わり者」のレッテルを貼られ何度もイジメを受けてきたことで身を持ってその酷さを語ることが出来る。一人一人は違うモノなのに、どうしても一緒にしたがる。
 小学校の頃から英語に比較的親しんでいたWOGは中学校になって英語の授業が始まるようになると、何度もその「本当の英語っぽい発音」でいじめられたことがある。彼らにとっては授業で学ぶ英語は「日本語っぽい英語の発音」でなければならず、本物っぽい発音をしようものなら「気取りやがって」ということになるのだ。つまり日本の学校の英語教育は「英語を母国語とする人と話をすること」を結果的に全く眼中に置いていないものなのだ。これではいつまで経っても上達しないのは明白だろう。
 最近は少子化で1クラス辺りの人数もだいぶん減ってきているようだし、AETも各学校に一人は配置されているようだが、周りが全て日本人である限り、生徒達は英語を話そうとしても話せない状態にいつまでも置かれ続けるのではないだろうか。
 どこかの右翼政治家のような「日本は単一民族の日本人から成る日本語のみが使われている国家だ」という思いこみが、顕在化しないにせよ人々の心の深層にべったりとくっついているようでは、いつまで経っても日本は世界情勢をまともに解釈できないと思われても仕方がないだろう。

ホームに戻る