耶蘇降誕祭の仏教徒

12/26

 昨日はクリスマス・イブ。そんでもって今日はクリスマスのためどこもお休み。そんなとき、独り者のWOGにやれることと言ったらホームページを更新することぐらい(笑)・・・と思っていたらWOGのホストファミリーの方(正確にはWOGの奨学金団体のWOGに関する責任者の方)から電子メイルがあって「イブにディナーに来ない?」とのお誘い。欠食児童のWOGはほいほい行ったはいいものの、その後教会で行われるミサに参加しましょうと言われる。困った。WOGはれっきとした仏教徒なのに(因みに浄土真宗西本願寺)。「あの、だって私仏教徒なんですけど・・・」と告げると「それでもいいのよ、あなたは参加できるの。とても素敵だから行きましょう」とのこと。果たして異教徒たる私が行ってもいいものかという疑念を抱きつつ、WOGはホストファミリーに連れられて教会へ。
 行った先はルーセリアン・チャーチ。っつっても宗教のことについて疎い(その分、「宗教」という言葉に関して「臭いモノには蓋」の傾向が非常に強い)日本人には何だか判らない人が多いので解説しますと、ルーセリアンとはルター派のこと。新教(プロテスタント)の教会です。WOGのホストファミリーはドイツ人の父とブラジル人の母という構成でしたのでプロテスタントかカトリックのどっちなのかなと思ってたのですが、父親系のほうでしたね(ブラジル他南米はやはりカトリックが多いので)。カトリックだと非常に荘厳な(=金かけた)教会でのミサが拝めるのですが、ルーセリアンは「聖書に還れ」とのルターの教えを遵守してるだけあって、非常に質素。一応カメラも持っていったのですが、あまり撮るべきものはなかったのでおとなしくミサに参列してました。
 入り口ではホストマザーのノーラさんがWOGのことを牧師さんに紹介。牧師さんは異教徒であるWOGを暖かく迎えてくれました。そしてキャンドルと祭式次第を渡されて中に。到着したのが遅かったので何故かWOGは最前列に。いいのかなぁ(苦笑)。
 ミサが始まりオルガンがグリーンスリーブスを奏で始めて、WOGは涙ぐんでしまいました。新教の教会に入る度、WOGはとても仲のよかった悪友のことを思い出さずにはいられないからです。そういえば彼が死んでからもう1年が経つんだなぁ。月日の過ぎるのの、何と早いことか。
 「諸人こぞりて」他の曲を聴きながらWOGは「そうだよなぁ、この国ではクリスマスは宗教的な行事なんだよなぁ」と実感。日本なんて国に住んでるとクリスマスというのは子供にとっては親からプレゼントを貰う日、若者にとっては恋人と一緒にラブラブで過ごす日、ですから、クリスマスに関する全てのものに宗教的な意味が宿っているということもついつい忘れてしまう訳です。
 教会での聖歌の斉唱を聞きながら、「そういえば、仏教徒にはこういう習慣てあるだろうか」とふと思いつきました。親族以外で同じ教派の人々が集まることなど、大乗仏教の信者が多い日本ではあまりないんじゃないかな。確かに創価学会や立正佼成会などの新宗教は信者の集まり、信者の団結を強調しているけれども、仏教徒の数に比べればやはり少数派になってしまう。というより日本の場合、同じ信念や信仰を持った団体というものに対して非常に嫌悪感を伴ったアレルギーを抱いているような気がしてなりません。それは戦時中の「神国日本教」からの去勢的反省からでもあるし、60〜70年代の学生共産主義運動の苦い思い出からというのもあるし、オウム真理教という80〜90年代の日本の社会事情をそのまま反映したような集団への怒りもあるでしょうし。こういうことも重なって日本では「宗教」という言葉に過剰反応してしまう人が多いのでしょう。
 アメリカでは日本とは対照的に宗教や信仰を持つことをむしろ強力に勧める傾向があるような気がします。日曜日の朝は大体の民放は神父や牧師さんの説教が放映されてるし、政教分離とかいっときながら大統領の就任式には新大統領は片手を上げ、もう一方の手は聖書の上に置いて誓いを述べているし。ここでは日本人のように「信仰心を明言しない」のはどちらかと言えばネガティブに映ります。そして日本人が宗教の話になるとよく使う「私は無宗教だから」という逃げ口上は、こちらでは非常にヤバい意味に取られます。何せ無宗教=atheist=テロリストっていう等式が成立してしまっているので。
 WOGの場合は、昔から仏教に慣れ親しんでいるし、これ以上拭い去れないほど仏教の世界観に影響されてしまっているので、仏教徒だと明言出来ますが、若い人達はあまり宗教に関しては意識しないことが多いみたいですね。WOGが先頃までルームメイトだった子もアメリカ来てから何のことやら判らない間に洗礼を受けてキリスト教徒になっちゃったという状態でした。アメリカという国に来て文学や歴史学を修めている以上、キリスト教の知識(特に聖書の知識)は不可欠なのですが、それでもWOGはキリスト教徒にはなろうとは思いません。それは今回もミサに参列してはっきり感じました。視線恐怖の傾向が強いWOGには(何せ世界で一番悲惨なことは自分がこの顔を持って生まれてきてしまったことだと思ってますから)どうしたって「神はいつも自分の側にいて自分を見ている」なんて脅迫じみた信仰には耐えられる筈がない。しかもその神は全知全能。無茶です。仏教みたいにお経の、現代人にはちんぷんかんぷんの漢字の羅列と違って、分かりやすい言葉で語られているだけに余計キリストの神は人格を持って自分を見ているようで必要以上の懺悔をWOGに強いているような気がしてならないのです。(誤解のないように言っておきますが、だからといってWOGはキリスト教を蔑視する気持ちは全くありません。これはWOGの全くの個人的な見解です)
 外国に来て暮らしてみると自分自身について自覚することというのは沢山ありますが、その中でもやはり大きなものは「自分はやはり日本人であること」と「自分自身の宗教性」でしょうね。普段は空気のようになってて見えてないものが見えてくる。これは日本にずっと暮らしてると決して判らないものなのでしょう。
 なんだか日本の方ではまた新たな宗教団体が世間を騒がせているとか。WOGは宗教集団の犯罪行為については全く認めませんが、こうやって宗教集団が極端に走り、世間を騒がせる一因に日本人の「宗教という言葉には蓋」という性向が絡んでいるような気がしてなりません。今の日本は宗教という言葉を遠ざけて考えないようにしているために宗教に対するしっかりとした認識や善悪の判断をなおざりにしてしまっている。それだから、真新しい宗教が自分の身近に迫ってきたとき、免疫がないものだからそれに付和雷同して共に極端に走ってしまう人だって出てきてしまう。そりゃ、何も考えなくったって日々の生活はやり過ごせてしまうし、こういう部類のことは考え出すと非常に深いので厄介かもしれません。でも、だからといって自分自身を深く見つめ直す作業をしなければそれでは他の植物や動物がやってることと一緒です。もうちょっと、宗教と日々の生活とのつながりを深く見つめて欲しいよなぁ、と願うばかりです。

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